シリーズ小沢一郎論(14)── 小沢攻撃をめぐる最終戦の行方

日本一新の会 達増拓也(岩手県知事)
(THE JOURNAL 2011年2月 9日) http://p.tl/1ChV

■小沢攻撃をめぐる最終戦の行方

 1月31日、小沢一郎氏が検審起訴された。マスコミが総じて「起訴される=(イコール)悪」という決めつけ報道を垂れ流し、反小沢の政治家たちがそれに便乗している。ネットでは、そのような理不尽な報道や政治に対する批判が怒涛のように書き込まれている。マスコミ論調が支離滅裂さの度を深めるのに対し、ネット論調は資料分析の的確さや論旨の合理性に磨きをかけている。

 ネットの盛り上がりは、質、量、共に、去年の民主党代表選の時をはるかに上回る。また、多くの政治家、ジャーナリスト、有識者が、より直接に、より濃密に、ネットに関わるようになり、ネットとリアルの相互作用が格段に深まっている。脳科学者の茂木健一郎氏はツイッターでの発言を基盤にしつつ『週刊朝日』や『新報道2001』にも登場した。森ゆうこ参議院議員はツイッターでリアルタイムの発信を続けながら、国会やその周辺でリアルの活動を展開し、その成果を資料満載のホームページにまとめている。さらに、ネットでの呼びかけを活用した、草の根のリアルの運動に、多くの人々が参加している。

 菅首相が、消費税引き上げ、TPP参加と並ぶ、政権の三大重要事項の一つとして小沢攻撃を位置づけた(政権の最重要事項としているようにも見える)ため、小沢問題は小沢一郎氏に関する問題から、天下人となっている菅直人氏のありようの問題に広がった。天下のありようが問われる問題となったのである。小沢攻撃を天下の重要事と位置づけた菅直人という人が天下人でよいのか、日本はそういう国でいいのか、という問題になっているのだ。マスコミは総じて「それでよい」という側に立ち、ネットは総じて「それではまずいのではないか」という側に立っている。

 小沢問題は、そもそも、よくある一政治家の疑惑問題ではなく、政権交代つぶしにつながる検察の攻撃だった。小沢氏は、検察の暴挙のせいで衆院選が混乱し、政権交代がつぶされないように、自ら犠牲になって代表を辞し、総理への道を鳩山氏に譲った。参院選前に幹事長を辞したのも同様の自己犠牲である。これで終わっていれば、小沢問題はせいぜい(といっても歴史に残る大問題だが)検察暴走問題で済んでいたのだ。それが、菅首相が小沢問題を国を挙げての大問題と位置づけて、小沢攻撃の先頭に立ち、小沢攻撃で自民党にすり寄ろうとしたため、小沢問題は菅問題となり、総理のあり方や日本のあり方が問われる問題に発展したのだ。

 もはや天下の大問題なので、小沢攻撃に加担するか、それとも小沢攻撃を批判するか、あらゆる人が、そのスタンスを問われる。政治家や言論人はもちろん、全ての人が、天の仕分け、お天道様の仕分けを受ける時が来たのだ。

 小沢攻撃に加担する側が、総じて知識・情報を軽視するのに対し、小沢攻撃を批判する側は、総じて知識・情報を重視している。

 マスコミ対ネットの図式にも見えるが、ネット論者はマスコミをかなりフォローした上でネットをもフォローしているのであり、知識・情報を軽視する「マスコミ従属」と、知識・情報を重視する「マスコミ+(プラス)ネット活用」の対立なのである。1月31日をもって小沢攻撃をめぐる最終戦が始まったわけだが、知識・情報を軽視する側は滅びへの道を歩むであろう。勝敗は既に決したと思う。