●週のはじめに考える 民衆革命が見据える壁
(東京新聞:社説 2011年2月13日) http://p.tl/sa8 -


 エジプトの民衆革命はムバラク独裁体制崩壊の先に何を見据えているのでしょうか。その帰趨(きすう)はグローバル社会が模索する新国際秩序も左右しそうです。

 国のかたちが変わる局面です。安易な比較は慎むべきですが、いまだ帰趨定まらないエジプトの民衆革命を見る国際社会の目には、どうしても二つの革命の残像が重なります。欧州に民主化のドミノ現象を起こした東欧革命。そして、イスラム原理主義を掲げたイラン革命です。


◆エジプトのネット革命
 「この革命はインターネットがもたらしたもの。命名するなら革命2・0でしょう」。デモ発生後拘束されたグーグル現地スタッフのゴニム氏の言葉です。ゴニム氏は、チュニジア革命直後から民衆蜂起を支援するサイトを立ち上げ、当局のサイバー監視網をかいくぐりながら情報ネットワークを形成していったといいます。

 タハリール広場での革命劇と並行して、独裁政権下で鬱積(うっせき)した民衆の怒りを結集した広範なネット上の若い世代の輪が広がっていたことを物語っています。

 東欧革命では衛星テレビが、イラン革命ではカセットテープが同様の役割を担ったとされます。

 イランの最高指導者ハメネイ師は、今回の民衆革命をイスラム革命の波及だとし、「イスラムの覚醒」を訴えていますが、二年前の大統領選挙に際して起きたネットによる体制批判の大衆運動に対しては厳しい規制で臨んでいます。グローバルな情報共有が時代の流れだとすれば、今後大きな逆風に晒(さら)されるでしょう。

 東欧民主化の象徴ともいえるベルリンの壁崩壊では、月曜日ごとに旧東独ライプチヒの教会周辺で行われた市民集会が大きな役割を果たしました。今回の中東民衆革命は回を重ねるごとに規模を拡大した金曜礼拝が十八日間の集会継続の大きな支えとなりました。


◆グローバル化の新たな壁
 ともに民衆自ら民主化を求めながら、一方ではキリスト教、他方ではイスラム教の伝統が基層を成している点で、根本的な違いも際立たせています。

 東欧革命によって資本主義と共産主義が対峙(たいじ)した東西の壁は崩壊しました。しかし、続いて国際的潮流となったグローバル化のなかで、新たな見えざる壁が世界の分断を先鋭化させています。経済に見られる南北格差と反欧米主義を唱えるイスラム原理主義の広がりはその最たるものでしょう。エジプトの民衆革命には、その両方が投影されています。

 米国のバーナード・ルイス元プリンストン大学教授は、テロを論じた著書のなかで、アラブ諸国・地域の国内総生産(GDP)の総計が、欧州中堅国一国の規模にも満たなかった米中枢同時テロ当時のデータを引いています。

 チュニジア革命後に緊急招集されたアラブ連盟首脳会議で、経済成長の必要性が問われ、一層の生活水準向上に取り組むことで合意したのはその危機感の表れです。エジプト政府が官民の賃金アップなどを打ち出したように、周辺諸国も対応策を模索し始めていますが、弥縫策(びほうさく)では何の解決にもならないことはもはや明らかです。

 オバマ米大統領は声明の中で、ベルリンの壁にも言及しながらエジプト人の非暴力的な民主化への変革を称賛しましたが、中東地域の独裁政権を支持し続けてきた欧米社会に対しては根深い反感、憎悪があることも忘れてはなりません。

 ルイス元教授は、「イスラムの怒りの根源」と題した別の論考で一神教をめぐる宗教的背景を大前提としながら、アラブを中心とするイスラム圏の反米思想の系譜を辿(たど)っています。ナチスの反米思想、ソ連東欧の社会主義、戦後の第三世界論の流れを経て、詰まるところその源泉は「西欧の世俗主義と近代化の二つ」に帰する、というのです。

 いずれも、イスラム過激派からは邪悪で否定されるべきものとされます。エジプト最大の野党勢力であるムスリム同胞団が、この反米の流れを背負いながら、民主化プロセスに参加してゆけるのか。中東最大の不安定要因である対イスラエル問題も絡み今後の中東民主化の大きな鍵となるでしょう。


◆世俗社会との共存モデル
 ムスリム同胞団創始者アルバンナーの孫に当たるオックスフォード大学のタリク・ラマダン教授(イスラム学)は、最近の英字紙で「現在の同胞団は多様化しており、若い世代は開放、改革的でトルコなどの例を肯定的にとらえ始めている」と述べています。

 エジプトの民衆革命が帰すべきところは、エジプト人自身が決めるほかありません。テロを放棄し、欧米世俗社会と共存するアラブの民主的国家モデルを築くことができるのか。世界が第二幕に入った革命を見守っています。



●指導者なき「革命」 無名の若者 ネット駆使
(東京新聞2011年2月13日 朝刊)http://p.tl/wu0J

 「エジプトの土に眠りたい」

 そう語っていたムバラク大統領が十一日、辞任した。彼に対する国民の憎悪を考えれば母国で永遠の眠りにつく願いも、果たしてかなうのか怪しい。最初のデモ発生から十八日目。ついに「革命」は成就したと、言っていいのだろう。

 九月までの任期まっとうに固執し、野党勢力との協議で事態を打開しようとしたムバラク氏。最後となった十日のテレビ演説でも「対話を通じて-」と強調していた。

 だが、対話など、どだい無理な相談だった。チュニジアのベンアリ前大統領を追放したデモと同様に、エジプトでも、時に百万人を超えたデモ隊を統括し、政権側と妥協点を探れる指導者など存在しなかったのだから。

 国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ前事務局長(68)も、イスラム原理主義組織ムスリム同胞団も、指揮できるのはカイロ・タハリール広場に陣取るデモ隊のごく一部。多くは、インターネット空間を通じて、政権への怒りを共有した無党派の若者である。

 デモの発端の一つになった警察官による若者虐殺疑惑の現場は、北部アレクサンドリアのネットカフェだった。死んだ若者はネット上で、警官の麻薬密売を告発していた。虐殺疑惑を世に伝え、最初のデモを一月二十五日の「警察の日」にやろうと訴えたのも、ネットを駆使する無名の若者たちである。

 一九七九年のイラン革命では、宗教界の権威ホメイニ師が亡命先で説教を録音し、側近がテープをイランに運び、音声が大衆を鼓舞したが、昔日の感がある。今の時代、カリスマでなくてもインターネットでメッセージ送信ボタンは押せるのだ。

 戦火の絶えない中東。歴史をつくるのは、いつも大国だった。

 パレスチナの地で争いが収まらないのは、かつて英国が、ユダヤ人とアラブ人の双方に「ここは、あなた方の土地だ」と二枚舌を使ったことに起因する。今もバグダッドで、子どもの体が爆音とともに吹き飛ばされるのは、米国が根拠もないままに「イラクに大量破壊兵器がある」と、兵士を送ったからだ。大衆はいつも受け身で、損な役回りだった。

 エジプトでデモが始まった時、同盟国の米国は「政府、デモ隊双方に自制を求める」と、当たり障りのない言葉しか発しなかった。イスラエルとの関係も良いムバラク体制の崩壊など、望んではいなかった。

 政敵を排除して独裁体制を築き、時の大国に追従しても、政権は倒れる。チュニジアとエジプトがそれを証明し、歴史は変わった。 (カイロ・内田康)



●エジプト、イスラエルとの平和条約維持 現内閣続行へ
(中日新聞2011年2月13日 朝刊) http://p.tl/GmLA

 【カイロ=清水俊郎】エジプトのムバラク政権の崩壊を受け、大統領権限を委譲された軍最高評議会は12日、「すべての国際条約を順守する」とする声明を出し、隣国イスラエルと1979年に結んだ平和条約などを維持する方針を示した。「平穏な政権移行を目指す」と強調し、次期政権が発足するまでシャフィク首相率いる現内閣が職務を続行すると表明した。

 タンタウィ国防相が主宰する最高評議会は11日の声明で「軍が人々の望む政権に代わることはない」とし、軍政は暫定的な措置と表明していた。ただ今後の具体的な日程は示されておらず、民政移行がスムーズに進むかどうかは不透明だ。

 国営テレビによると、最高評議会は12日、夜間外出禁止令を4時間短縮し、午前0時から午前6時までに緩和した。18日間の大規模デモと騒乱でまひした社会機能の正常化を目指す。

 一方、反大統領派のデモの拠点であるカイロのタハリール広場では12日、軍が人の流れを制限していたバリケードと有刺鉄線の撤去作業を始めた。広場には同日午後も1000人以上がとどまっている。

 またAFP通信によると、北部イスマエーレーヤで同日、警官数百人が「デモ隊に発砲を重ねたのは上司たちに強制されたため」と訴えてデモ行進した。1月25日に始まった一連のデモでは全国で約300人の死者が出ており、市民の憎悪や報復を恐れてのアピールとみられる。

 AP通信は空港当局者の話として、政府の元高官らが司法当局や軍の許可を得ずに出国することが禁じられたと報じた。中東の衛星放送アルアラビーヤによると、フェキ情報相が12日、自宅で事実上の拘束状態に置かれたという。

 【エジプト・イスラエル平和条約】 1979年3月、米国の仲介で両国が結んだ。相互の国家承認、中東戦争の停戦、シナイ半島からのイスラエル軍や入植者の撤退などを定めている。エジプトはこの条約により、イスラエルを正式に承認した最初のアラブ国となった。

●エジプト、軍が憲法停止 統治半年、新政権へ
(共同通信 2011/02/14 01:01)http://p.tl/jCyA
 車両の通行が再開したタハリール広場周辺の道路=13日、カイロ市内(共同)
 【カイロ共同】エジプトのムバラク政権崩壊を受けて実権を掌握した軍最高評議会は13日、憲法の停止と人民議会(国会)の解散を発表した。新政権発足までの移行期間は6カ月前後とし、この間、軍評議会が統治する。国営テレビを通じて声明を出した。

 声明によれば、憲法の一部改正に関する委員会を設置し、改正に関する国民投票を行った後、大統領選と議会選を実施する。移行期間中、政策決定などは軍評議会が行い、行政は引き続きシャフィク内閣が遂行する。

 大統領や人民議会に助言を行う諮問評議会も解散。選挙が6カ月以内に行われれば、移行期間は短縮されるが、遅れれば延長される可能性もあるとしている。

 反政府デモを続けた野党や民主化勢力の要求に応えた形。軍評議会が新政権発足に至るプロセスを明確にしたことで、次期大統領選や議会選など「ポスト・ムバラク」体制に向けた各政治勢力の動きが今後、活発化しそうだ。

 ムバラク前政権の与党、国民民主党(NDP)がほとんどの議席を獲得した昨年11~12月の人民議会選について、反政府デモを続けた民主化勢力は不正があったとし、議会解散などを求めていた。

 国営テレビによると、検察当局は12日、多数の死傷者を出した反政府デモ鎮圧や汚職などの捜査のため、ナジフ前首相、アドリ前内相らの出国を禁止したと報じた。権力を掌握した軍評議会による旧体制側の責任追及が進んだ。



●首都広場の交通再開=市民生活、正常化へ-「治安回復が主任務」と内閣・エジプト
(時事通信 2011/02/13-22:07)http://p.tl/zqpb
 【カイロ時事】ムバラク大統領の辞任を受け、軍最高評議会が政権を掌握したエジプトでは、休日明けの13日、反体制デモの中心地となった首都カイロ中心部のタハリール広場で軍警察がデモ隊のテントの撤去を開始、2週間以上にわたって途絶えていた車の交通が再開した。広場には軍警察に抗議するデモ参加者が残り、小競り合いが起きたが、大きな混乱はなく、市民生活は徐々に正常に戻りつつある。
 広大な円形をした広場には13日、軍警察幹部が姿を見せ、デモ隊に対し、同日を最後に広場から退去するよう要請した。デモ隊の一部は「われわれは広場で権利を要求し続ける」などと声を上げ、退去を拒んだ。ロイター通信によれば、依然として数千人が残っているが、広場の周回道路には車が流れ始めた。
 軍出身のシャフィク首相が率いる内閣は同日、閣議を開く予定。内閣スポークスマンはロイター通信に「政府(内閣)の主要な任務は治安と秩序の回復、経済活動の再開などだ」と述べた。


●国防相同士が電話会談=ネタニヤフ首相、平和条約順守を歓迎-エジプト・イスラエル
(時事通信2011/02/13-21:34)http://p.tl/Za3r
 【エルサレム時事】イスラエル国防省報道官は13日、バラク国防相とエジプトのタンタウィ国防相(軍最高評議会議長)が12日夜に電話で会談したことを明らかにした。会談内容は不明だが、エジプトのムバラク政権が反体制デモで崩壊して以来、両国当局者の接触が明らかになったのは初めて。
 イスラエルとエジプトは1979年の平和条約締結後、良好な外交関係を築いてきた。イスラエルはムバラク後の体制に警戒感を抱いているが、これまで両国の間に目立った緊張関係は生じていないもようだ。
 イスラエルのネタニヤフ首相は13日の閣議で、エジプトとの平和条約は、「両国間のみならず、中東全体の平和と安定の礎石となっている」と強調。エジプト軍が12日、平和条約順守を言明したことを歓迎した。


●大統領宮殿に向け行進 イエメンの反政府デモ隊 警官隊が阻止
(産経新聞2011.2.14 00:45) http://p.tl/L_rj
 独裁的なサレハ大統領の退陣を求める反政府デモが続くイエメンの首都サヌアで13日、デモ隊約千人が大統領宮殿に向けて行進したが、警官隊に阻止された。ロイター通信が伝えた。

 エジプトのムバラク政権崩壊の直前、デモ隊がカイロの大統領宮殿に向かったことに触発されたとみられる。デモ隊は「エジプトの次はイエメン革命だ」などと叫んだという。

 サレハ氏は、反政府デモを受けて2日、2年後の退陣を事実上表明し、息子への権力継承も否定。さらに野党勢力への対話も呼び掛けている。

 サレハ氏はイエメンの統一以来20年以上、北イエメン時代を含めると約32年間大統領を務め、強権的な体制が批判されている。(共同)


●アルジェリア400人拘束 反政府デモ イエメンは数百人衝突
(東京新聞2011年2月13日 朝刊)http://p.tl/PHS8

 【カイロ=弓削雅人】AP通信によると、アルジェリアの首都アルジェで十二日、独裁的なブーテフリカ大統領の退陣や民主化を要求するデモが起き、約二千人が集結した。約三万人の警察部隊が配置され、警棒などでデモ隊を抑え込み、四百人以上を拘束した。

 デモ隊は、エジプトのムバラク大統領辞職を伝える新聞を掲げ「ブーテフリカは出て行け」などと叫び、政府に抗議した。デモは労働組合や人権団体、左派政党などが組織し、アルジェ西方の第二の都市オランでも実施された。

 ブーテフリカ大統領は、一九九二年以来続く非常事態宣言を近く解除する方針を明らかにしていた。

 また、イエメンの首都サヌアでも同日、反政府デモが発生。エジプトの政変に影響された数百人のデモ隊が、エジプト大使館前でサレハ大統領の退陣を要求、警官隊と衝突した。


●パキスタン 前大統領に逮捕状
(東京新聞22011年2月13日 朝刊)http://p.tl/4stt

 【バンコク=古田秀陽】パキスタンのブット元首相が二〇〇七年十二月に暗殺された事件で、同国首都近郊ラワルピンディの反テロ裁判所は十二日、ムシャラフ前大統領から事件への関与について聴取する必要があるとして逮捕状を出し、裁判所へ出頭するよう命じた。これに対し、ムシャラフ氏の広報担当者は同氏が拒否する方針であることを明らかにした。AFP通信などが伝えた。

 出頭期限は今月十九日で、ムシャラフ氏が同日までに応じなかった場合、裁判所は国際手配などの手続きを取る可能性がある。

 捜査当局は昨年十二月、元首相暗殺の際に適切な警備が行われなかったとして、警備責任者だった警察幹部二人を逮捕。ムシャラフ氏の関与や責任を明らかにするため、同氏に事情聴取を求めたが、応じないため、裁判所に逃亡者として認定するよう求めていた。

 ムシャラフ氏は〇八年八月に大統領を辞任後、ロンドンに滞在。昨年十月には政界復帰を目指し、新党結成を発表していたが、逮捕状が出たことで帰国は困難となった。

 ブット元首相は〇七年十二月、ラワルピンディで総選挙に向けた集会に出席し、男から銃撃と自爆攻撃を受けて死亡した。

 当時のムシャラフ政権は、イスラム武装勢力「パキスタンのタリバン運動」(TTP)司令官を暗殺の首謀者と非難したが、同政権が関与したとの指摘もあった。


●ムバラク氏、辞任前に資産移動=欧州から湾岸の口座へ-英紙
(時事通信2011/02/13-22:37)http://p.tl/fIJl
 【ロンドン時事】13日付の英日曜紙サンデー・テレグラフは西側情報筋の話として、エジプトのムバラク大統領が辞任前、一族が保有する資産を海外の銀行口座に移動させていたと報じた。移動させた額は不明だが、ムバラク氏の資産総額は最大で400億ポンド(約5兆3400億円)に上る可能性があるという。
 それによると、民衆デモを受けて辞任が避けられないと判断したムバラク氏は、当局による捜査の手が入る前に欧州各国に保管されていた資産を急いで引き出し、複数の「追跡不可能」な海外口座へ移し替えた。移動先は明らかでないが、同氏と「友好関係」にある湾岸諸国の可能性が浮上している。