オザワの罠


(THE JOURNAL:田中良紹 2011年3月2日)http://p.tl/24mi


 2月28日、笠間治雄検事総長が日本記者クラブで会見し、「特捜部に起訴権限を与えないことを検討している」と述べた。「警察が取り扱う事件は、検察が第三者の目で見て冷静に起訴の判断をするが、特捜部は自分で捜査して自分で起訴するお手盛りだから暴走しやすい」というのである。


 特捜部の主任検事の補佐役に特捜部以外の検事をつけて起訴の可否を判断させることなどを内部で検討しているようだが、密室の取り調べで強引に供述を誘導し、起訴に持ち込んできた特捜部の体質を見直す一環として述べられた。直接のきっかけは厚生労働省の村木厚子さんが無罪になった郵便不正事件だが、私はそれよりも「オザワの罠」が生きてきたと思った。


 09年3月の西松建設事件は不思議な事件だった。私が知る検察は世論の動向を慎重に計算する捜査機関である。特に政治に関わる事件では非難されないよう十分に配慮した。だからロッキード事件をはじめとして数々のでっち上げに国民は騙されてきたが、民主国家の検察としては選挙や国会に影響を与える時期の捜査は避けるのが常識で、政治的偏りも許されない。そういう点にこれまでの検察は留意してきた。


 ところが東京地検特捜部が西松建設事件で小沢一郎民主党代表の大久保秘書を逮捕したのは、政権交代がかかった衆議院選挙の直前である。村木さんが無罪となった大阪地検特捜部の郵便不正事件も石井一民主党副代表をターゲットに同時期に摘発されていたが、二つともまず時期が問題だった。

 次に西松建設と密接な関係があるのは自民党議員に多いのに、逮捕されたのは小沢氏の秘書だけである。しかも容疑は逮捕に相当するとは思えない微罪であった。それが検察首脳会議も開かずに決められたと言う。半年以内に最高権力者になる可能性がある政治家の捜査を首脳会議も開かずに決めることなど民主国家ではあり得ない。民主国家でなくとも官僚のイロハがひっくり返る話である。


 検察の常道を外してまで行う捜査は尋常でない。政権交代を阻止したい政治勢力に主導された政治捜査だと私は見た。そうだとすると検察にこの事件を立証する気がない可能性がある。政権交代を阻止したい勢力の目的は小沢氏の政治力を削ぐことで、有罪に出来なくとも一定期間身動きがとれない状態に追い込めれば目的は達成される。


 それに協力した検察は、逮捕という強硬手段で世間に「悪」の印象を植え付ける一方、小沢氏に恐怖感を与えて代表辞任に追い込むシナリオを書いた。「代表さえ辞任すれば起訴はしない。しかし辞任しなければ徹底的にやるぞ」というメッセージが逮捕に込められていると私は思った。選挙直前であるからこの「脅し」には効き目がある。だから捜査の常道を外してでも選挙前の摘発になった。

 明治以来「政治とカネ」に洗脳されたこの国では、「検察は正義」という迷信を信ずる馬鹿者が大勢いる。捜査を主導した勢力の思い通り、メディア、国民、政治家から「けじめをつけろ」の大合唱が起きた。小沢氏の周辺からも「一時撤退しろ」との進言が相次いだ。普通の政治家なら選挙のことを考えて「一時撤退」する。しかし小沢氏は「徹底抗戦」を宣言した。それが私の言う「オザワの罠」である。検察に起訴させるよう仕向たのは小沢氏なのである。起訴したのを見届けてから小沢氏は代表を辞任して選挙に備えた。


 この一手で形勢は逆転する。有罪にする材料がないにもかかわらず起訴に踏み切った検察は逆に追い込まれた。政治家が絡む事件で起訴して有罪に持ち込めなければ、検察が受けるダメージは計り知れない。大阪地検の郵便不正事件では検事総長の責任問題にまで発展したが、仮に西松建設事件で大久保秘書が無罪になれば、それと同等かそれ以上の問題になった筈だ。


 検察に西松建設事件の裁判を「先延ばし」する必要が生まれた。それから検察は必死に小沢氏の過去に遡り、ゼネコン各社との関係を洗い始めた。大久保秘書の有罪に自信があればそんなことをする必要もないのだが、まさに泥縄である。そして水谷建設が秘書時代の石川知宏衆議院議員に裏金を渡したという真偽不明の供述にたどり着く。年が明けてそれが立件され、これまたやってはならない通常国会直前の現職議員逮捕となった。


 そこで共犯として大久保秘書が再び逮捕され、大久保秘書の裁判は訴因変更された。これが裏の狙いである。しかしそれがまた検察を追いつめる。今度は現職の石川議員を起訴した裁判で有罪を立証できなければ、西松建設事件以上のダメージを受けることになる。その裁判が現在進行中である。被告はいずれも供述は検事に強制されたものだとして無罪を主張している。裁判の行方は検察の存亡に関わる。


 さらに小沢氏を追いつめる別の問題が同時に検察をも追いつめている。検察審査会の強制起訴の制度である。検察が捜査して不起訴としたものを素人の国民が起訴できることになり、小沢氏が今年1月に強制起訴された。小沢氏の政治力を削ぎたい勢力には歓迎だろうが、検察にとっては不愉快だろう。


 検察官は唯一起訴の権限を与えられているから権力がある。しかし検察が証拠を調べて不起訴にしたものを、素人の国民は「裁判になったらどういう結論になるか見てみたい」という興味本位で起訴する。もし裁判で有罪にでもなれば、検察は無能集団のレッテルを貼られ、プライドはズタズタ、日本の司法は痴呆になる。


 しかしそれもこれも、起訴する権限を振り回して暴走してきた検察が、メディアを脅して手先に使い、国民を洗脳して「世論」を作り、その「世論」に裁判所が迎合してきた社会の仕組みのツケである。それが日本の政治を根底からおかしくしてきた。


 私はアメリカ議会を10年以上見てきたが、日本の政治家がアメリカと比べてとんでもなく駄目だと思ったことはない。政治家はみな似たようなものだ。ただ違うのは「司法」と「メディア」である。日本ほど国民の代表である政治権力より行政権力に迎合した「司法」と「メディア」はない。ところが国民は昔から「司法」と「メディア」を信じ込むように教育されてきた。それが日本の民主主義を阻んでいる。


 年初から今年を「創造的破壊の年」、「地殻変動の年」と書いてきて、世界の変化にも言及したが、日本で変化を余儀なくされているのは「司法」と「メディア」である。国民は政治の体たらくに呆れているが、それを正すにも「司法」と「メディア」に地殻変動を起こさせる必要がある。現下の情勢はそこに風穴を開けつつある。「政治」と「司法」と「メディア」の地殻変動は相呼応していくのである。