『大坂冬の陣図屏風』をみると、たしかに真田丸全体が、赤備えで赤く染まっているようにみえます。
ただし、原画は江戸時代初めのものだとしても、われわれが目にする屏風図は、江戸時代末期に模写され、大正時代になって屏風に仕立てられたものです。
しかも、細部をよくみると、白描のみで「タン(丹)」「コン(紺)」などと、色指定されている箇所が散見されます。
つまり、色については未完成。ここを「朱(赤)色にする」などという指定だけが残り、実際に色が塗られていない部分があるということです。
その意味では、全体の構図や描かれている対象物の正確さは折り紙つきながら、こと色についてはかなり割り引いて考えなくてはなりません。
後世の作為が感じられます。
一方、文字史料で幸村の本陣の馬印(唐人笠)に赤い無地の布を付けているところまでは確認できますが、真田隊そのものが赤備えだったかどうかはわかりません。
まして、真田丸に籠る衆は混成部隊。
真田勢のほか、伊丹周防守正俊・平井七郎兵衛保則・山川帯刀賢信・北川治兵衛宣勝らのほか、伊木遠雄(豊臣秀吉の元近習)が軍監として派遣されていました。
また、古地図によって真田丸の内部が分割されていた形跡が認められ、そこに長曾我部盛親勢が籠っていたという説もあります。
真田丸全体が真紅に染まるイメージは明らかに後世になって後づけされたものでしょう。
では、なぜ赤備えのイメージが生まれたのでしょうか。
(つづく)
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