あいうえ「ぬ」と言えば拳骨が降ってきたし、自転車ノーヘルでもしようものなら冬場の倉庫に二時間監禁。電気なんてあるワケない。
ファミコンだって「きっっっかり一時間」が約束だったから、ドラクエで何度セーブしそこねたかわからない。
それほど厳しかったから、一言「ソロバン教室へ通いなさい」と言われた時も抗える事ができず、小学三年からソロバン教室へ通うようになった。
ボロボロの自転車に乗って。
~
ソロバンは母親のお下がり。
僕よりも「年上」なソロバンは、所々が老朽してた。
「欲しいもの」なんて買って貰った事がない僕は、そのソロバンが不便な事を母親に言う事が出来なかった。
どうせ「もったいないから使いなさい」でオシマイだろう。
~
プライバシーなど無かった僕は、時として母親から抜きうちで「持ち物検査」をされていた。
机の引き出し、ランドセル、そしてソロバン教室のカバン。
「あんた何これ?」
イジメの痕跡がバレる恐怖におののきながら母親の手元を見る。
ソロバンだった。
ソロバンの材料である竹の棒は水分が天敵で、水分を吸収してしまうと途端に計算駒が動かなくなる。
その時点で4桁と6桁の竹棒はほとんど動かないくらいになってた。
「もうこれ使えないじゃない!なんで言わんかったん?」
欲しいものをねだると怒られ、我慢しても怒られる。
「何やっても不正解」な状況に立ち尽くした僕を見かねた母親。
「新しいの買ってあげるからもうしばらくそれ使ってなさい。」
~
数日後に渡されたソロバン。
どの駒もスーっと動く。
傷も無いし、どこにも僕以外の名前が書かれていない。
新品だった。
当初はソロバンなんてやりたくもないと思っていたけど、新品を買って貰うとさすがにやる気が出た。
買って貰ったその新品を、早く使いたくてしょうがなかった。
~
日もすっかり落ちたとある雨の日。
ソロバン教室からの帰り際、着慣れないカッパと装着し慣れないソロバンカバーに時間を食ってしまった。
ヤバい。
帰りが遅くなったら怒られる。
オンボロの自転車は悲鳴をあげてた。
フレームにプリントされてる仮面ライダーのようには速く走れない。
辺りはもう真っ暗なのに。
サビたチェーンが僕の歯ぎしりを代弁していた。
「あと5分で帰れればセーフ」
それだけしか考えてなかった。
息もたえだえ辿り着いた自宅前の裏路地。
街灯の電球が切れかけてた。
~
気付いたら地面に突っ伏していた。
自宅前最後のカーブを曲がろうとした時、
そこにあった大きな水たまりに気付けなかった。
水深約5cm。
子供のボロ自転車の推進力では、その水たまりを突き進む事が出来なかった。
ヘルメットのおかげで頭に怪我は無く、すぐさま水たまりを見渡すだけの余裕はあった。
新品のソロバンが水たまりで半身浴してた。
大粒の雨に打たれてソロバンが泣いていた。
~
ヤバい。
これは殺される。
産まれて初めて恐怖で泣いた。
倒れっぱなしの自転車や散らかしっぱなしのカバンをどうにかしようという発想にもなれず、ただその場でしゃがんだ。すすり泣いた。
門限なんてとっくに越えてた。
~
僕の周りだけ雨がやんだ。
いつまで経っても帰って来ない親不孝者を見かねた母親が傘をさしてた。
全力で膝を抱えた。圧縮した体育座りのように。
「どうしたん?」
供述したら殺される。
「隣近所に迷惑をかけてはならない」を叩き込まれていた僕は、奇声のような声を押し殺して泣いてた。
「怪我したの?」
何を言ってるのか一瞬わからなかった。
糾弾に対する心の準備しかしてなかったから。
「立てる?」
意地で立った。
迷惑をかけてはならない。
「大丈夫?」
隠し事をしてはならない。
「そ、ソロバンが。。」
~
「あぁあ。。」
失望の声が聞こえる。
電気椅子はどこだ?
と思った刹那。
「ソロバンなんていいのよ。
それよりもマサが交通事故にでも会ったんじゃないかって心配したのよ。
大きな怪我でも無さそうだし、とにかく無事で良かった。
大丈夫。また新しいソロバン買ってあげるから。」
~
ソロバンよりも、僕を心配してくれた。
損得勘定よりも僕を優先してくれた。
ホッとした。嬉しかった。
その安心感で、張り詰めてたものが一気に緩んだ。
気が緩んだら、一気に痛みが来た。さっきまで全然痛くなかったのに。
「僕の事も大切だったんだ。」
今度は恐怖感からではなく、許された安心感で泣いた。
~
「僕の事を考えてくれているんだ」
そう思いながらその夜食べたシチューは本当に暖かかった。
不思議と「ニンジンもちゃんと食べなきゃ」と思っていた。
それまで「モノを大切にする」という行為の基板が躾による恐怖感だったのに、
なんだか道徳感みたいなものへと変わっていった。
それまでは単なる規範意識で守ってた「ニンジンも食べなさい」という言いつけも、なんだか主体的になれたような気がした。
怒られたくないから頑張るんじゃない。
愛されたいから頑張るんだ。
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「イジメ克服ブロガーミュージシャン」Bun(ブン)
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