小説「かみのけ」 | 文学ing

文学ing

森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

こだわりがあって伸ばしていたわけじゃないのですが。
せっかく失恋もしたことなんだし、なにかセレモニーになることをしようと思ったのだ。伸ばし始めて2年になる。
「ちゃんと手入れしてて、いいね。」
とその人が言ったくせに、気がついたらしっかりもっとちゃんと手入れしていること付き合っていて、
髪とか、身の回りのこととか、きちんとしているのが好みなんだと思って、それなりに努力していた自分を、少しすこーしだけ哀れんだ。
2年も髪を切らなかったので行きつけのヘアサロンが無かった。思い立ったらぐずぐずしているのが嫌いなたちなので、駅降りて裏手すぐにあったお店にぱっと入る。新しくて小綺麗でわりとかわいい店舗だったので、悪い印象がしなかったから。
なんだかいつまでも長い髪でいて、いつまでもそのひとのことを未練がましくしているように、そういうように自分を感じているのが、いやだったのだ。
むろん初めて入るお店だ。
「いらっしゃいませ。」
30前くらいの女のひとが、一人でやっているらしかった。非常に細い体の線が長袖Tの下に仕舞ってある感じ。偏見だけどプロっぽい。
予約してないんですが、と言うと、かまいませんよお、とのんびりのんびりした様子で言われた。
カット椅子に座った私の、頭髪を見てそれから鏡に映った私を見ながらそのひとは、
「今日はカラーかパーマでよろしかったですか? 」
とへんな風に聞いた。今日はどのように、がセオリーでは?
「いえ。カットをお願いします。」
私は言った。
「え。」
彼女は 予想外 という顔をして鏡の中ではなく現実の私の肩辺りの髪の毛を、急に見るのだ。焦ったように。
「いえ。あの。カットお願いします。さっぱりと短く。」
私はカット椅子に座っただけで、彼女は襟元にタオルすら掛けてくれていない。そして私がカット、と言ったことに非常に混乱している様子だ。当惑したというのか。
へんな店に入ってしまったのか。
焦りと後悔がだいたい外郭を為している恐怖の内側をくるくる回り出すころ、彼女は私の2年かけて伸ばした髪の毛(カラーはしていない。黒いだけ)を、確かめるように一房ひとふさと、指で掬って見ていた。
「ごめんなさい。」
私が言ったのではなくて、彼女だった。彼女は鏡の中できちんと両手をそろえて私に頭を下げた。
「? 」
「カットはできないんです。」
私は訳が分からなかった。
最近ではカラーとパーマ専門のサロンもあるんだろうか。
「えーとですね。旨くご説明できないのであえてしないのですが、こちらは、お切りにならないほうがいいと思うんです。いえ、思うなどとあいまいなことではなくてですね。切らないほうがいいんです。もういっそ切ってはいけません。理由は、説明できないのですが。」
散髪やさんに髪を切りに行って
「切ってはいけない」
と言われたのは初めてだ。コーヒーやさんに入ってコーヒーを注文したら断られるような感じ? いや違うと思う。
「どうして切ったらいけないんですか? 」
一応私は聞き返した。
「それがですね。なんというか。説明は出来ないんですが、とにかく切ってはいけません。出来ればうちでなくとも、どちらのお店でもお切りにならないでください。ご期待にそえなくて申し訳ないです。変に思われたでしょうし。」
切ってくれというところを、切らないんだ、と言うのだから私にできることはなかった。
私は彼女に深ぶかと頭を下げられてその店を出たのだった。

それだけのお話。
なんとなく彼女の言ったことが気になったので、私はその後半年ほど髪を伸ばし続けた。
彼女のいうことがなんとなく気になったのだけど、それから更に半年ほどの後、私は別の美容院で髪を切った。
結局3年も伸ばしたので結構な長髪になっていた。今度の店ではなにも言わずにささっとショートにしてくれたんだけど、7000円取られたのだった。
実にそれだけのことなのだ。
髪を切らなかった間になにかあったわけじゃない。
髪を切ったあとも特に心躍るようなことは起きていない。
しかしあの時、私が髪を切ってはいけないなにか、説明のしようのない
「なにか」
を彼女が私の髪に見ていたことを、なんとなく思い出しては、私は今でも
さわさわ
っとすることがあるのだ。