わたしが4歳の時だったそうだ。
当時鳥取市内に充実した映画館が無く、
話題作は何年かしてから市民ホールなんかがフィルムを借りて
上映会をしていたらしい。(←昭和!)
4歳の私は姉Pと両親に連れられて鑑賞に
↓
爆睡 → どクライマックスの「金色の野」
のシーンでむっくりと起き上がったと言う。
確かにあの4歳にとっては大きすぎるスクリーンが
一面金色に染まった光景は、まだ覚えている気がするのだ。
「ナウシカ以前にナウシカなく、
ナウシカ以降にナウシカなし。」
漫画アニメの類を一切みない亡父がそれでも、
唯一無二 絶対のアニメ映画として「ナウシカ」を絶賛していたので
いまでも私の中に大きな興味を刻み込んだ映画作品であります。
今日バイトしながらサボって
休憩しながら「ナウシカ」原作漫画最終巻を読んだ。
そーだったのかあ!!
↑今かよ!!!
的な なんというのか
やっと分かった、意味、
ものすごいなっとくっ 感を得た、読後。
「僕は常に時代の先さきをみて働いてきた。それがファンタジーだと思った」
と語られた宮崎監督の最初にしてもっとも明確な意図が
このときすでに結晶していました。
荒廃したナウシカたちの暮らす世界を造った過去の人類には
壮大な楽園製作プランがあった。
「そこにはもう飢えもなく苦しみもない。
以前は過去になったのである」(←なんか聖書にこんな台詞あったとおもう)
というあれである。
しかしこれに対して
ナウシカまじギレ
↓
清浄と汚濁こそが生命の真相!
と旧世界を一喝。
徐々に徐々に種の力が細り、確実に滅びに向かっている自分たちに対し、
個人的な体力の衰退と死を繰り返し、
やがて「動物・人間」としての死を迎えることこそを含めて
生命体としての自然である
という まあ一番基本過ぎてあえてみんな考えたくなかった答えにたどり着くのです。
なんだかとても力を得ます。
父がわずか20分という時間で死んでしまったとき、
私は生死というものが一瞬で訳が分からなくなりました。
その数年後3.11の大災害が起こり、
なんだこの世、この世ってなんだいや
と自分が生きてここに居ることも一切がっさい
ちゃちゃらむちゃらになりました。
そしてこの春家族の誰もから憎まれた父の母親が90歳の天寿を全うし、
私はたくさんの人の手を煩わせながらだらだらだらだら生きている。
そうして得た答えは
家に帰るまでが遠足
みたいに
死ぬまでが人間。
なんだなあ、と。
人間であることと死ぬことを切り離してはいけないと思った。
死にかたまで含めて私の個性なのだ。
それを私が生まれるか生まれないかくらいで発想した宮崎監督は
やっぱすっげえ!!