小説「杖」M.PP16 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

準備には思ったより時間が掛かった。
どういうわけか時間をかけてしまった、という言い方も出来るのだが。
彼女が思いつく限りいろいろなものを揃えて、
「どうにか一人で行って来れそうだわ」
と思った頃には
夏が天頂よりは大分傾いていた。
それでも彼女は出発した。
母親に気づかれるのを恐れたのよりも、単に時間が過ぎていくのが惜しかった。
彼女は朝一番に自宅近くの駅から出る電車に乗り、既にチケットを手配してある新幹線の駅に向かった。
晩夏といえども朝が来るのは早かった。
まだ去りがたく、いらいらと踏み込んでくるような朝だった。
彼女は新幹線でいけるところまで、とにかく西の方に行ってみるつもりで居た。
その末端が本州で止まるのか九州まで行くのかよく分かっていなかった。
もっと言うと彼女は本州が何で九州がなんなのかもよく分かっていない。
彼女は学校でまともに授業を受けたことがあまり無かったし、それについて強い態度に出る大人も居なかった。
「私は本当にあそこに居たのかなあ。」
路銀を節約しようと、たくさん買い込んだビスケットにとりあえずの水筒のお茶を合わせてかじりつつ、彼女はやっと自分が何をしようとしているのか口に出せたのだった。
それは爽快な感覚だった。
ああなんだか自分の中のトーンが軽くなっていくようだわ、
と彼女はビスケットをこみこみとしながら思う。
どの道解き放たれるだけなのに、いつまでたっても檻で待たされているハトみたいだと思っていた。自分のことを。
誰かの人生の一瞬を、一瞬で祝福するだけなのに、檻の中でずっと待たされている間抜けな白い小動物みたいに自分が思えていたのだ。そしてそこから取り出されたような気持ちがしてならないのだった。
朝一番の新幹線で。
家出ということを決行したあとで。
彼女は自分が本来の自分の姿に戻っていくのを感じていた。驚くことにそれは野生だった。
大きな街の、鉄塔が地面から天に向かってたくさん生えているような場所だとなかなか発揮されない。
目隠しや意地悪がたくさんあってなかなか働けない。それは人が事実動物だという証明だ。野生。生まれた以上しかたなく備わっているもの。
そんなものはどんな人間でも一生眠らせているものだけど、
驚くことに彼女は家から一歩はなれただけで、それが発揮され始めていた。
「どんどん薄くなっていくなあ。」
と彼女は快適な感情をそのままに口にした。
どんどん薄くなっていく。
存在が? 色彩が? 輪郭が? 計量が?
そう、全部だ。彼女はそれを感じて、爽そうと奔るすばやい乗り物の中で快適にいる。
それでよかったの。
と彼女は納得して嬉しくなっている。
私はなにものにもならなくても良かったのだ。
最初からこれでよかったのだ。私は何かになることをあらかじめ想定されている状態が怖かった。
この人達はなにを根拠に、私がいったいどんなものになると思っているのだろう?
彼女にはさっぱり理解できない。
これから10年ほど勉強して、自分が何か出来るようになると思えなかったし、何をしたいとも思わなかったし、
だというのに何になって何をするのかとっとと決めなければいけない学校という場所は、
ただ、ただ理解できずこわいところだった。ずっと。
好かった、これが、私のリアルなんだわ。
と彼女は感じていた。レールが過ぎ、過ぎ行く間、自分がどんどん薄くなっていくのを感じている。
漫画の背景の中の誰でもない「そのひと」になった気がして快適だ。
私こそが漫画の背景なのだ。
「すてきなおくりものだね。」
と彼女が言って、ふいに前のシートに座ってる人が不審な頭をくねらせた。