小説「最も偉大な存在」M.PP24 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

“境界線は簡単にこえられるものじゃない”
という一つの文章が、帰りの電車に乗っている彼女の頭の中で鳴りつづけた。
狂った和尚さんが一日中鐘を衝いているみたいに。
しかし鐘の音があんまりささやかなので、だれも特に文句を言わない。鐘の音は斯くも穏やかなのである。
一夜明けて、彼は無言でろうそくやお酒のビンや毛布やコップなどを片付けていた。彼女はその気配で目を覚ました。
目を覚ました、ということは彼をないがしろにして一人で寝てたということだろう。
彼女はそう思った。
そしておそらく彼の持ち物であるシュラフが彼女の動きに合わせてばさばさ剥がれ落ちた。
彼とはその後何も口を利かなかった。
意味の在る会話は一つも交わさなかった。彼は先にたって山を降り、薄明かりの中でさらに暗い木立の下で、きつい傾斜がくると振り返って、きをつけて、などと言った。
彼女は彼と電車ターミナルがある駅まで小さなバスに乗って、ただ乗っていて、目的地まで乗っていってそのまま分かれた。
分かれるといってもバスを降りたあとの目的がそれぞれ違うというだけのことだった。後でもう一回会うわけでもないのだし。名前を教えあったりアドレスを交換する必要は全く無い。
彼女は再び新幹線の来るもっとも近場の駅まで特急券を買った。
ひょっとして夕べ何があったというわけでもないのかもしれない。
彼女はそんなことを考えて駅のベンチに座っている。
もしかしたら夕べのあのこと自体、私の呼ぶ声によって向こうからやってきたのかもしれない。
などと考えた。
そしてなんともいえない心になった。どうにも表現しようのない感情を彼女は理解していた。
一番近いものを選ぶなら、厳粛、だろうか。
彼女はとても厳粛な心で、夕べと今朝の現実を受け止めていた。死んだ後で冠をもらったマリアだったらこういう気持ちを分かってくれるかもしれないと思ったりする。
“境界線は簡単に私を許してくれない”
これは非常に厳粛な結果だった。
“境界線は絶えず運動して、立ち止まっているということがない。”
彼女はずっと境目は一本の糸みたいなものだと思っていた。ゴムとびの、ゴムみたいなものだと思っていた。ゴムとびのゴムみたいなものだから、みんな好きにあっちにいったりこっちにいったりするのだと思っていた。
そして違うことが分かった。
糸はそれ自体が運動する。さっき縦向きだったものが今見たらちょっと傾いている。そして、さらにもっと傾いてしまう。もっともっと傾いたら、最初がどんなだったのか分からなくなってしまう。
縦に成ったり、横に成ったり。
さらに糸は一本きりでなくて、後からあとから割り込んでくる。前からも後ろからも、右からも左からも、斜めから、また反対の斜めから。
気がついたら布が織られている。彼女は折り重なった糸の小さな小さな目の中でどうすることも出来ない。布のことを綾とも行って、アヤとは過ちと同じことなのだった。
だから彼女は今とっても厳粛なのである。彼女はもっと自由に出来るのだと思っていた。
自由に出来ると思っていたから、ちっとも理解することが出来なかったのだ。
暴力を理解しながら友達を辞めることが出来ないのとか。人形のふりをして暮らしているのに“人形のふりをするのが耐えられない”のとか。
あっち側に行けばいいのにと思っていた。
違うのである。
あっち側には行けやしないのである。

私はこの小さなマス目の中でただ立ち尽くしていて、あなたもあなたもずっと立ち尽くしていて、出来ることが何もない。
駅のベンチで永遠にこのままかもしれない朝に特急を待ちながら、彼女は厳粛なあるひとつのことを受け取っていた。
不自由。
一番決定的な事実。もっとも手出しの出来ない存在。不自由。私は常に不自由だ。
なぜなら選んでもいい境目があまりにもたくさんあるのだから。
私は今糸巻きの中身みたいなところに居て、これから何万(何億?)というつなぎ目を断ち切って向こう側にいかないと成らないのだけど、いったいどうすればいいのでしょう。
ひょっとすると夕べの彼こそがすべての不自由の向こう側の、不自由から見放されたところにいたのかもしれない。
「例えばゆうれいみたいな。」
彼女はちいさく呟いた。
そこ此処に人は居て座ったり歩いたりしていたのだけど、彼女を気にするのは一人もいない。