長編お話「東尾言語」の33 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

私は受付のカウンターに利用料の置くと、利用者名簿に 後藤むい、と自分の名前を書いた。
更衣室で道着に着代えようとしたら伊達帯を忘れた事に気づく。まあいいやと思って袴の帯をキツメに締めた。
トイレに行って髪の毛を結び直して、器具庫から弓を借りようと選んでいたら

「後藤さん!」

と、余りにもそのままの声が聞こえたので私もあんまりにも普通に、
「先生。」
と返事してしまう。
「久しぶりだね。あ、髪の毛染めてる。すっかり街の子になったねえ。」
先生はカケを嵌めたままの右手で私の頭の上をてんてんと叩く。
「先生カケは大事にしないといけないんですよ。」
と言うと先生は
変わらない笑顔で、はい、と言った。
「弓、使うの。自分の持ってなかった?」
「久々なんであんな重いの引けないですよ。」
「16キロの弓引く女の子なんてそうそういなかったからね。」
「の、割には的中率が悪いから恥ずかしいです。」
「後藤さん。弓は的を射んとするではなく骨を射んとするものなり、だよ。」
と先生はやっぱりいつものように笑った。
私は12キロの弓を借りて弦を掛けると、巻藁の前に立つ。
「見てあげようか。」
と矢を手にして的前に入っていこうとしていた先生が言う。
「いいです。しばらく巻藁で肩慣らしますから。先生教射なさってたでしょ。」
「段級審査近いから。」
「次は何段ですか。」
「練士。」
と言うと先生は弓矢を手ばさんで一例すると的前に入って行った。

私は巻藁の前で足踏みして両足の間隔を取り、高校時代の練習を思い出すつもりで矢をつがえ、弓を打ち起こし、両肩が詰まらないように意識して引き分けた。

12キロの弓だったらどうにかまだ引く事ができた。
私は弦を引き絞り、5秒、呼吸を貯めるつもりだったのだが実際には3秒しか持たなかった。

バンっ
と弓が鳴って矢が巻藁に刺さる。私は放れが下手なので弦がこんな風に悪く鳴るのである。
「あーあ。」
とため息をついた。

ヒャン、
とまた響いてくる。先生の弓は20キロ。だから矢飛びが早い。そして角見が利いているから放れの後弓が綺麗に反転する。私は的前でおそらく、残心を取っている先生の後姿を思った。

巻藁を20本引いたらどうにかいつもの調子を取り戻せそうだったので、私は矢を一本だけ持って的前に立った。

足ぶみ、胴作り、弓構え、取りかけ、打ち起こし。
一つ一つ動作をこなしていく間に、私は神棚のある上座の方から先生が私を見ているのを意識して喉の奥が痛くなった。

バンっ
と言ってまた、下手に矢が放れた。的を大きく右に外した。
「角見がちょっと甘かったね。」
と先生が言った。
「矢を取ってきてごらんよ。」
私は今度は二本矢を持って同じ的の前に立った。
「矢飛びは悪くないから、会の時にぶれないように耐えてね。」
「弓が重いですよ。」
「はは。何言ってるの怪力後藤さん。」
私は教室生時代によく言われたことをまた言われて、
ああやっぱりいつもの通り。
と思った。
先生は私の右腕の後に立って、
「ちょっと左肩詰まってるよ。それから右の手首曲げないで。せっかく直った癖がまた出てきてるよ。」
と言う。
そんなことを言われて緊張したからかもしれないが、
三本目の矢を放す時私は手首を変に捻ってしまって、パーンと弦が切れてしまった。

「あー。ごめんなさーい。」
「いや、弦はどうしても切れるからね。別の弓使おうよ。」
先生は気さくに言ってくれた。

「などかいる、
ないそ、
ないそ。」

私はふと思い出した言葉を口に出したら。先生は器具庫に立ちかけて、嬉しそうに振り返った。
「ああ。古典の弓比べね。懐かしいなあ。弓道部の奴はみんな好きだよね。」
「無辺世界を射抜くやつですよね。」
私と先生は弦の取れてしまった弓を抱えてしばらく同じ話題で盛り上った。