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集団的自衛権が日本の防衛に不可欠な理由
「角を矯めて牛を殺す」ことなく両々相俟つべし
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/40486より転載

安倍晋三首相は、最近の国際政治の冷厳さを直視し、合理的実効的安全保障体制の確立を期待する者の宿願である「集団的自衛権の合憲化〈解釈改憲〉」のため、観念的理想論の護憲勢力や頑迷な野党並びに左翼論陣の強い反対ばかりか、軍事的緊張を高めかねないとして一般国民の不評の中で、自民党内の敗戦後の自虐史観からなお抜け出せない勢力からの抵抗に悩ませながら政治生命を賭けてその実現に心血を注いでいる。

 しかるに、多年国家の防衛に共に努力してきた防衛省(庁)元高官が「個別的自衛権で対応可能である」とか「集団的自衛権の行使容認は日本の国是の平和主義を放棄させ、かえって国家的リスクを招く」と主張したり、「個別的自衛権の行使の法的措置もままならず、また当面しているグレーゾーンの対応措置を何も講じないまま、今何で集団的自衛権か」、また「眼前の危機を放置し理想を語るな」などと批判し、さらには「集団的自衛権と集団安全保障を混同し、米国に向かう弾道ミサイルの邀撃論などはまさに噴飯ものの論議だ」と批判する向きもある。

 これらの論者の説は一面正当であるし、またその意図も国の安全を真剣に希求し、多く部下の命を預かる立場に立って自衛隊がいかに不合理の環境に置かれ、使命達成上その早急な解決を求める崇高な一念に発することは疑いなく、その勇気ある発言には敬意を表さねばならない。

 だが半面、反対勢力からは「それ見よ、元防衛省庁の高官の軍事専門家さえ反対している」と逆用され、結果的には「角を矯めて牛を殺す」破目になりかねないことが危惧される。このため、政治生命を賭ける安倍首相やこれを補佐推進する立場の幹事長職にある元防衛長官の石破茂氏はさぞ苦々しい思いでいるに違いないかとも想像される。

 現政権の集団的自衛権の合憲化努力は各政権が放置した日本の危機対処の一大分野への敢然たる取り組みであり、この施策が成功すれば我が国の防衛政策は画期的に改善され個別的自衛権行使上の諸問題も両々相俟って対策が講ぜられる新たな事態展開の希望が期待される。

論者の痛切な主張の真意

 前述の論者の発言は痛切であり、確かに自衛隊の実態は戦う集団として必要な権限を与えられていない。

 これはかねて為政者とその掌に当たる官僚が真の文民統制を忘れ文官統制をこととし自衛隊の管理にのみ走り、戦闘の実態に基づく制服の運用上の要請に耳を傾けず国防をいかに機能させるかに意を用いなかったからで、自衛隊はなお30年も栗栖弘臣・元統合幕僚会議議長が職を賭けて為政者に警告した当時とほとんど同じまま置かれている。

 このため自衛隊は最新鋭の武器を装備し、よく訓練され、世界最精鋭の戦闘集団だが、その運用は非現実的に拘束され、万一の事態では隊員は無為に血を流し、部隊は戦闘集団として当然可能な機に応ずる行動をよくせず、国民の期待に反し、国民の生命財産の保護を危うくする事態が生じかねない。

 この根底は憲法が戦力保有を禁じ、交戦権を否定することにあり、自衛隊は形上軍隊と誤解されているが、本質は行政機関であり防衛行動は警察作用法に依拠する行政行為で、交戦権と戦時国際法に基づく軍隊の戦闘行為とは全く違い、自衛隊の行動には大きなハンデキャップを課されているからである。

それでも論者の指摘は妥当なのか

 日米共同は果たして「個別的自衛権で十分カバーできる」であろうか?

 確かに「有事の際に並んで行動する米僚艦の防衛に自衛艦が武力を行使することは個別的自衛権で可能だ」と過去に国会で答弁されている。

 しかし様相ははなはだ多様で、個別的自衛権だけでは我が国の国益を守る上でこれに対応できない事態も多い。もしできるとするなら集団的自衛権の概念の存在価値がない。

 イラクへのPKO部隊派遣の折、内閣法制局は「米軍への一杯の飲み水の提供もことによっては集団的自衛権行使に当たりできない」とし、また北朝鮮の弾道ミサイル発射の監視に日本周辺海域に展開された米イージス艦の警戒監視要請を「憲法上できない」と断り米海軍が不信を募られたとも伝えられる。

 またもし朝鮮有事が再発し必要が生じても現行(ACSA)では弾薬の相互支援もできず、韓国に在住する22万の米国人を日本に緊急脱出させるための船や飛行機の掩護を我が国に要請された場合「個別的自衛権を越える」として断ったら日米安保は事実上消滅するであろう。

 「集団的自衛権が合憲化されたら、日本は戦争ができる国となり、一発の銃弾も発射しないで、一人も殺さず一人も殺されなかった自衛隊は、米国について地球の裏側まで行かされ、殺すか殺されるかの場に立たされ日本の大切な平和主義を消失させ、国を大きく誤らす」とするがその主張は果たして本当に妥当な判断なのか。

 確かに自衛隊は発足以来幸いにして交戦に及ぶ不運に遭遇することはなかった。しかし、もし不幸にして我が国が侵害を受けた場合それでも、一発の弾も撃たず侵略軍の一兵も殺さなかったのか。そうではあるまい。

 その折には自衛権が発動され、自衛隊員は使命に従い命を賭けて交戦し自衛戦争をしなければ我が国は亡びたろう。従って戦争ができる国になるとかならないとか、自衛官が殺すとか殺されとかの論は幼稚なセンチメンタルな詭弁に過ぎない。

 またどこまで集団的自衛権を行使するかは政治の判断であるし、「日本が集団的自衛権を合憲化すると、また日本軍が攻めてくるぞと周辺国が危惧する」等の発言は実態にそぐわないためにするものでしかない。

 「個別的自衛権行使のための法整備もままならず、眼前の危機のグレーゾーンの對応の施策を放置したまま何で今集団的自衛権論議か」との意見は短絡過ぎる。

 首相自らこれを認めているように並行推進も可能である、また「論議において集団的自衛権と集団安全保障を混同している。手段もないのに米国に向かうミサイル邀撃論などは噴飯ものだ」との主張は酷評過ぎないであろうか。

 なぜなら今どき安全保障の専門家たちがそれらを混同するはずもないし、ミサイル邀撃論も可能ならの前提の話だ。

一内閣の憲法解釈変更は法の安定性を損なう」だろうか?

 今日の憲法の解釈問題の経緯を見ればどうであろう。吉田茂元総理は当初は完全に武力保有を否定し自衛戦争をも否定したが、これを国際情勢の変化に応じ修正し自衛権を認め自衛隊を創設した。

 そしてその自衛隊の力は憲法の禁ずる戦力ではないとしたが、戦力の定義の矛盾を突かれると定義を変更し、併せて自衛官を憲法の文民の身分からそうでないと変更したが、誰も法の安定性が崩れたとした者はいない。

 憲法といえども事情変更の原則から超越するものではなく、内閣が国会の同意と国民の大方の意見を徴して情勢に応て解釈を変更することを禁ずべき理由はなかろう。

今日の国際環境では集団的自衛権に基づく同盟が最良の安全保障策だ

 今日の国際関係はウクライナ問題で象徴されるように、19世紀型の力の秩序の再現に似て、国際法や正義は大国のエゴに無視されて、中国やロシアの当事国が安保理事会の拒否権を有する国連は、弱い一国の生存を保証することはできない。

 さらに世界の警察官であった米国とその与力的存在のEUの力は衰退し、急速に台頭する中国と大国化復権を目指すロシアは国益最優先で自らの論理のみを振りまく。

 この世界情勢はちょうどウィーン体制下にドイツとロシア帝国が自己主張始めこれに英仏が複雑に対抗し虚々実々の勢力均衡の策を巡らした当時やナチスドイツが軍事力を膨張させチエコスロバキアにドイツ人の多く住むズデーテン地方の割譲を要求し英国はじめヨーロッパ諸国が悩まされた当時と非常によく似てきている。

 このような時代では安全保障は同盟に依存するしかない。そしてその基礎は集団的自衛権の行使であり、日米安保もこれに依拠する。

 しかも、日米安保は当初自衛権行使の手段を欠いた日本を米国が軍事力で安全を保証し、日本は土地・カネを提供する全くの片務的条約であった。それは米国が圧倒的に強く他国は抗し得ず、一方我が国の防衛力は甚だ微力で、かつアジアには北方のソ連を除き脅威が存在しなかったから有効に機能したのである。

 だが、記述の通りアジアの戦略環境は激変し、米国は力を落とし、中国が急激に台頭して力で既存秩序を破壊し、強力にアジア太平洋の覇権を手中に収めようとしており、日本は中核とする米国と携え民主主義国家群と共に力の均衡を構築しなければ、台頭する中国や強権的ロシアに屈せられる。

 国際関係の基は国益であり、決して善意や好意ではない。しかも米国には「バンデンバーグ決議」があり、「同盟の条件は相互支援と自国の至当な防衛努力であり」、米国は日本のためには血を流し、日本は米国のためには土地使用とカネで済まし続けることはあり得ない。

 しかも文明の基礎の異なる米国には「日本は歴史的に常にバンドワゴンに乗る政策を取ってきた。従って日本は中国有利と見れば米国から離れ文明の近い中国の乗り換える可能性を否定できない」と名著「文明の衝突」の著者ハンチントンは指摘しており、「日米同盟」を揺るぎないことする努力が不可欠である。

 このためには集団自衛権の行使合憲化は日米同盟の信頼性をより強化する最良不可欠の方策であり、また抑止力を高め我が国の安全保障に大きく貢献する。

忘れてはならない歴史の教訓

 日本が大東亜戦争に引きずり込まれ、明治以来の父祖が血をもって築いた国益を一挙に失い、肇国以来の惨めな敗残を喫した最大の原因は何であろうか?

 それは疑いもなく日本が国際政治の相互依存を忘れ世界の流れを正視せず、自国だけの論理で結果的に国際的孤児に追い込まれたからではなかったか。

 すなわち、今日と同日には語れないが、日露戦争では覇権国英国と同盟し、その英国の助けと米国の仲介で危く勝利をつかんだのに、第1次世界大戦では連合国側に立ちながら、苦境に立つ英国などの連合国の悲痛な援軍の要請に対し、「我が国建軍の本義はヨーロッパに派兵することではない」とこれを拒絶した(海軍の小さな特務艦隊は派遣)。

 この大局を忘れた判断が禍し間もなく4個国・9個国条約の美名の下で日英同盟を破棄され世界から孤立化する破目に陥れた。これに反し米国は大軍を派兵して戦後の世界政治の指導権を握った。

 古代における地中海を挟んで南北に対立したローマとカルタゴの戦略的条件は、今日の東シナ海を挟んだ中国と我が国との関係によく類似する。

 興隆するローマは海運貿易国家のカルタゴを攻め、その艦隊を破り地中海の制海権を握り勝利して、シシリー島を割譲させた(第1次ポエニ戦争)。

 名将ハンニバルが登場するとカルタゴはスペインから伊太利に遠征しカンネーの殲滅戦などで勝ち、ローマ市攻撃の態勢を敷くに至ったが、カルタゴの政敵が必要な援軍を送らず、かえってローマはスキピオにカルタゴ本国を攻撃させ制圧屈服させた(第2次ポエニ戦争)。

 しかし敗北したカルタゴが鋭意商業貿易で経済復興すると、ローマは平和条約に反するととがめて攻めた。これに対し指導者ハンニバルはシリアとの同盟を策したが国内勢力から裏切られて成功せず、ローマ軍はカルタゴを蹂躙しカルタゴ人を殲滅し生き残りのすべてを奴隷として、カルタゴは地上から永遠に抹殺された(第3次ポエニ戦争)。


 地中海を東シナ海に、シシリー島を尖閣・沖縄、に置き換え、日本の政治の分裂と日米同盟の双務化に対する賛否の状況をカルタゴに、また拡張主義のローマとを中国に置き換えて考察すると身の毛が弥立つほど教えられものがある。

 カルタゴが抹殺された理由はこのように、カルタゴ人が商業に没頭して軍備を怠り、国論が分離し、信頼できる強力な同盟を持たなかったことが挙げられる。

これを要するに

 冷戦が終焉した後、米ソの圧力が開放され、世界各地で紛争が燃え上がり、国際情勢は不安定不確実と言われたが、今は米国の覇権が崩れ西側の法支配秩序とロシア・中国の力の論理が交錯する新しい世界に向かおうとしている。

 このような中で、なぜ日本は旧態依然、世界で普遍的に認められる集団的自衛権がこんなに問題になるのであろうか。

 そもそも、戦後独立を回復して、世界政治の舞台に再登場するに当たりては、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結〈政府が署名・国会が批准〉し、さらに国連憲章を批准して国連に加盟した。

 また日ソ共同宣言にも署名したが、そのいずれにも個別的・集団的自衛権が明記され、また国連加盟おいては集団安全保障の加盟国の義務責任を承諾したが、いずれにおいてもこれを制限又は条件を付したいささかの行為もない。

 従って、日本は集団的自衛権の保有を世界に確約したもので、これを内閣の一機関に過ぎない法制局が「保有するが使えない」などと世界に主張することは許されないはずだろう。

 また旧日米安保にかかる砂川事件の最高裁判決(1959.12.16)で自衛権を認めたの「日本は自衛権行使の手段を持たないので、集団的安全保障の権利で締結した」のその前文を受けたものであり、当時は安保改定(1960.1.19署名)の国会で「個別的自衛権・集団的自衛権」が盛んに論議されていた中の判決であり、当然これらも踏まえて「憲法第9条は日本が主権国家として持つ自衛権を否定いていない」としており、これは「両者の自衛権」を指し、A紙や公明党代表が「それは個別的自衛権を指したものだ」とするのは解せない。

 本来自衛権は「正当防衛権」であり自己及び他に及び、また仏語の語原では「自然権」で成文の憲法を越える存在である。それなのに集団的衛権が憲法上許されるとか許されないとか、一内閣の解釈合憲法化は法の安定性を損なうなどと政争に明け暮れることは、我が国を窺う国を好機到来とほほ笑ませるだけだろう。

 集団的自衛権の合憲化は死活的に重要な日米安保体制をより確かなものとし、我が国の安全と抑止力の向上に大きく貢献する。政府は速やかにこれを決定せよ。

 そして並行して自衛隊の運用を不当に阻んでいる制約を可能な限り可及的速やかに解決する努力(ROE制定・領域警備法制定・PKOにおける武器使用条件緩和)を行はなければならない。我々志ある者は「角を矯めて牛を殺す」議論を止め、大局的見地からこれを強く支持しよう。

 かつて、左の人たちは西側との単独講和は東側を敵に回し我が国の安全を危うくする、日米安保条約は戦争に巻き込まれると強力に反対し、国論は分裂騒然としたが、ことが過ぎると何事もなかったように国論の一致が回復した。正論は必ず衆人の支持するところとなる。本件も同じ歴史をたどることだろうと確信される。

 付言するが、今、中国や韓国が対日批判を強め、米国内でも批判されるのは、現政権が、右翼的で靖国神社参拝、従軍慰安婦問題再検討、秘密保護法制定、憲法解釈改憲等の動きで日本の平和主義を変えようとしているからだと高名な学者や評論家も批判するが、最近訪日(2014.4上旬)の豪トニー・アボット首相が「日本は国際社会の優等生だ」と賞賛し、元米国務副長官も理解を示す講演を行い、在日の英国記者が「普通の国を指向する」だけだ、米国戦略国際問題研究所のスタッフが「米政府は失望などと言わず安倍首相の話をよく聞け」と言っているし、中国の対日主張が歴史の真実と異なることを中国の学者は知ってるとも伝えられることも忘れてはなるまい。