4「和魂洋才」思想のシンボルとしての大日本帝国憲法


■日本古来の思想に基づいた近代憲法

 一八八九年に制定され、日本の近代国家の中核となった大日本帝国憲法はまた、当時の和魂洋才の叡智のシンボルと考えることができる。

 戦後、この憲法についてよく、ドイツ憲法の模倣であり、伊藤博文がドイツでプロシア憲法を学び、ビスマルクの指導を受けて起草したものとの説明が施されているが、それは誤りだ。

 それは制定にあたって最も深く関与した外国人学者であるロエスラーというドイツ人が大のプロシア嫌いだったというだけではない。たしかに伊藤はドイツ人など大勢の外国の学者の助言を受けてはいるが、日本の国体、文化、伝統に適さないものは拒否している。つまりこの憲法は外国の憲法を参考にはしたものの、決してむやみな模傲ではなく、まったくの日本独自のものなのである。ドイツ法学だけでなく、イギリス法学の影響にも深く影響されているが、その基礎は明らかに日本の国体だった。

 一八八二年、憲法調査のためヨーロッパヘ渡った伊藤は、ベルリン大学のグナイストとウィーン大学のシュタインに憲法を学び、その影響を大きく受けた。この両学者が伊藤に説いたことは、憲法は自国の歴史と文化に根ざした、民族精神を体現したものでなくてはならないということだった。伊藤はその進言を受け入れた。だからシュタインから国教を制定し、国家と国民の一体化を図るよう勧められても、日本人の信仰心になじまないとの理由で受け入れなかった。伊藤は国教制度あるがゆえのヨーロッパでの宗教戦争の歴史を知っていた。だから国教を設定するよりも、日本の白由で大らかな宗教風土に基づく信仰の自由の道を選んだのである。

 伊藤と並ぶ、もう一人の憲法起草者が井上毅だ。井上は古事記、日本書紀以降の典籍で日本の古法、固有文化を研究した。そして古事記の中にある「治[しら]す」と「領[うしは]く」という統治概念に着目したのだった。

 「領く」とは統治者による国家の私物化を意味するものだが、これに対して「治す」とは「知らす」であり、「知る」の尊敬語である。天皇が国民の心を知り、それをまとめ上げて国を安らかにするというものであり、それは皇室の思想的な伝統でもあった。

 そこで井上は憲法草案第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ治ラス」と書いた。だが「治ス」という古語ではわかりにくいので、最終的には「統治ス」となったのだった。

 ちなみにこの憲法は第一条が「天皇」から始まるが、プロシアなどヨーロッパの憲法学では、君主の前に、君主、人民を包含する「国家」が規定されるものとされ、政府側の試案では、当初はそのようなスタイルもとられたが、最終的には日本の古来の思想により、政府や議会の対立という構造を含む「国家」を超越した形で、まず「天皇」が前面に置かれたのだった。

 伊藤はビスマルクに私淑しており、強権主義のビスマルク流に従って、井上草案に修正を加えようとしたとき、井上は「ビスマルク主義に従えば内乱になる」と激怒したこともある。

 憲法発布後、井上はその私著において、「我が国の憲法は欧羅巴の写しにあらずして、不文憲法の今日に発達したものなり」と断言している。

 伊藤もまた、「いかなる点においても、他国の憲法の単なる模傲ではなく、徹頭徹尾日本的なものになった」と、シュタインに報告していた。

 憲法制定当時、イギリスの進化論者スペンサーや、アメリカの連邦最高裁判所長官で法杜会学の始祖であるホームズなどが最も評価したのも、憲法の規定が日本の伝統文化に立脚していることだった。



■日本人の血となり肉となった憲法の精神

 近代憲法の制定という日本初の試みにおいて当初は、やはり多くの試行錯誤があった。

 元老院で作られた草案や、盛んに提示された民問の草案でも、西洋諸国の憲法の切り貼り、焼き直しのようなものだった。

 なにしろ当時、憲法は西洋だけのものだったから、その模倣に走るのもやむを得ないことだった。

 だが憲法は制定すれば事足りるというものではない。いかに高い理念、理想を掲げても、その民族が憲法を「行う」ことができなければ意味のないことである。戦後多くの国が独立し、米英など先進国を模倣して、最先端の内容の憲法を制定しているが、だからと言ってそれらの国で先進国並みの憲政が行われているわけではない。なぜならその国民に憲法を「行う」ことのできるだけの素養がまだ確立されていないからである。

 日本は、しばしば非ヨーロッパ圏ではじめて近代的憲法を制定したと言われているが、実際には日本に先立ち、トルコが一八七六年に制定し、議会制立憲政治を開始している。だがわずか二年後にこれが停止されたのも、そのような理由からだった。このトルコでの失敗で、憲法はヨーロッパ諸国以外では制定は不可能であると考えられるようにもなった。

 そうした中で伊藤らは、日本の文化、民情を徹底的に研究して大日本帝国憲法を作り上げた。そしてシュタインが「周緻精確なることは欧州憲法の右に出ること数等なり」と評したように、世界でも最も優れたものとも称賛されたことは特筆に値する。

 帝国憲法は、冒頭において万世一系の天皇が統治権の総攬者であることを明らかにするとともに、天皇の大権として文武官の任命、緊急勅令、宣戦・講和・条約の締結、陸海軍の統帥などを規定した。また、国民には議会を通しての参政権を認め、法律の範囲内での契約の自由、所有権の不可侵、信教・言論・出版・集会・結杜の自由も保障した。貴族院と衆議院の二院制、三権分立体制を採用した。

 そしてこの近代的憲法が、憲政未経験の当時の日本で「行われた」かと言えば、見事なまでに行われた。元老から一般庶民に至るまで、まさにその血となり肉となった感があった。その権威たるや、まさに信仰の対象とも言うべきで、政府も政治家も、憲法の規定に沿うことを、今日以上に第一義としていた。

 帝国憲法の権威の淵源は、欽定、つまり天皇が定めたという一点に尽きる。これによって当時の日本人は、この憲法を絶対的に支持し、遵守したのだった。ホームズは「欧州各国の憲法が人民の腕力で創定されたものだったのに対し、日本憲法が天皇の恩賜であり、国民もまたその恩賜に感拝している」ことを称賛した。もちろん西欧の君主国の憲法にも欽定憲法はあるが、たいていは君民協約憲法であり、精神的権威の面では日本の憲法に劣っていた。

 帝国憲法は欽定であると言っても、諸外国で見られたような皇帝の恣意に委ねられたものではなく、憲法制定の告文にもあるように、天皇が国民に率先して履行していくと誓った上で制定されたものである

 このため国民もこの憲法だけには頭が上らなかった。そして国民の間では上下を問わず、護憲の精神が横溢したのである。この憲法は日本国憲法の施行まで五十七年間続いたが、その間改正されることもなかったというのも世界の憲政史上稀なことだった。戦後の日本国憲法は、すでにその記録を破ってはいるが、それはそれほど帝国憲法時代に育まれた憲法遵守、憲法擁護の精神が日本人に根付いているからだろう。

 もちろん戦後の不改正は、左翼勢力の護憲運動によるところもきわめて大きい。戦後の左翼政党は、何かにつけ護憲を叫んでも、第一条に規定される「天皇」の存在を蔑ろにし、あるいは否定しており、この程度のご都合主義の護憲姿勢など、戦前ではのうちに入らなかった。戦後の護憲の叫びなど、第九条を盾に日米安保に反対するためのものであって、そうした政争の具として安っぼく憲法を利用するようなことは、かつてはまったく考えられなかったのである。

 また憲法改正を党綱領に掲げる自民党が、長年にわたって与党の座を維持することも、戦前では考えられないことだった。

 日本国憲法は、アメリカ憲法の模倣と言うより、アメリカ製憲法であることは、その制定過程からも明らかだ。そのため権威というものが希薄であり、しかも国民の精神風土に適さないだけ、いたずらに伝統文化を破壊し、混乱をもたらすだけであって、決して「行われている」などと言うことはできないのである。


『大日本帝国の真実』 黄文雄著

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明治憲法は日本人の価値観や伝統を上手繁栄した世界でも評価の高い憲法だった。

聖徳太子の憲法17条や五箇条のご誓文のなかにある古来から続く日本人精神が盛り込まれたものだった。

「和を以って尊しとなす。」は聖徳と太子の言葉だが、かれが定めた憲法17条にとても素晴らしい内容がかかれている。

上にたつものはしたのものの家族や暮らしを慮って、下のものより早く仕事に就き、下のものよりも遅く仕事をしなければならない。

また、五箇条のご誓文にも、国家の取り決めは広く民の声をよく聞き、民の暮らしをよくするものでなければならないといったことが書かれている。

日本という国は大昔の時代から民主主義の思想を備えていた国である。

戦後、アメリカに民主主義を教えられたというのは大間違いである。

今、日本人が自分さえ良ければいいという、自己中の人間になってしまったのは、帰属する社会より、個人の権利を優先するアメリカに押し付けられた憲法に原因がある。

日本人がかつての民度の高い民族に生まれ変わるには国柄を変える憲法を変えなければならない。


拉致が突きつけた憲法問題 調査会・荒木代表が講演

 北朝鮮による拉致問題の膠着(こうちゃく)状態が続く中、憲法記念日の3日、特定失踪者問題調査会の荒木和博代表(拓殖大教授)が愛媛県松山市二番町の松山ワシントンホテルプラザで「『戦う日本』と憲法問題」とのテーマで講演。国民の権利を保障した憲法のもとで、国家が拉致被害者を助け出さないことが憲法違反だと訴えた。

 荒木代表は、北の工作船に自爆装置が付けられている例を挙げ、「死を覚悟しながら日本人を拉致しようとする人に対して、9条は何もできないと指摘。護憲派による「9条のおかげで日本は平和だ」との主張に対し、『平和』という言葉を使ってわが国の平和を踏みにじっていると批判した。

 さらに、「憲法の上に真理や道理がある」とし、「拉致された国民を救うのは、憲法ではなく国家が存在するからだ」と強調。「憲法があるために拉致被害者を救出できないなら、憲法の規定や解釈を変えるしかない」との持論を展開した。

 そのうえで、会場に集まった約200人の市民らに「日本は私たちだけではなく、先人や未来の世代のものでもある」と述べ、「彼らの語られぬ声に耳を傾け、恥ずかしくない国づくりをしないといけない」と結んだ。

産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/region/shikoku/ehime/080504/ehm0805040222001-n1.htm


拉致被害者を取り戻さないのは日本国民の権利を保障している憲法に確かに違反している。ドイツでは占領政策が終わった後、押し付けられた憲法を破棄して元の憲法に戻している。

生存を放棄したような何処にもないような憲法はいい加減日本人の伝統や価値観にあったものに変えるべきです。

憲法九条信者を見てください。あの人たちのうさんくささ。

平和を謳いながら、チベット騒乱で多くのチベット人が犠牲になりましたが、うんともすんとも言わず、押し黙ったままです。こうした平和団体の多くが実は強烈なアメリカ嫌いで、反日思想に凝り固まった人たちの集まりです。

日本を侵略したくてたまらない国からしてみれば現状の憲法のままであったほうが都合がいい。

日本が未来のチベットにならないためには何時没落するかわからないアメリカに頼りきった安全保障を根本的に変える必要があります。

いくら理念が優れていても、滅びてしまっては意味がありません。