長崎譲渡の寄進状 故郷へ 11月に国内初公開 大村純忠、イエズス会に約す

2008年8月22日 00:11 カテゴリー:文化 九州・山口 > 長崎  キリシタン大名の大村純忠(1533‐87)が1580年にイエズス会に長崎を譲渡することを約した「寄進状」が、11月1日から長崎市立山の長崎歴史文化博物館で始まる「バチカンの名宝とキリシタン文化」展で日本初公開される。

 11月24日に、キリスト教の殉教者188人を「福者」として公式に宣言する「列福式」が同市で行われることに合わせ、文書を保管するイタリア・ローマのイエズス会文書館が、初めて国外に貸し出す。長崎県文化振興課の海江田義広学芸員は「長崎が天領になるきっかけをつくった極めて重要な史料」としている。

 今回展示される寄進状は2通。いずれもスペイン語で「長崎という所とその領内のすべての田畠(たはた)を永久譲与し、その所有権を委ねる」などと書かれ、大村純忠の洗礼名ドン・バルトロメオも記されている。同文書館で他の文書と冊子にまとめて保管され、門外不出とされてきたという。

 寄進状は現在の長崎港周辺などの土地を寄進することで、イエズス会の背後に控えるスペインなどの軍事力の庇護(ひご)を受け、周辺勢力をけん制する狙いがあったとみられている。土地はその後、キリスト教の布教拡大に危機感を抱いた豊臣秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出し、イエズス会から取り上げて直轄領となった。

 同展ではこのほか、伊東マンショや千々石ミゲルら天正遣欧使節が1585年にローマ法王に謁見(えっけん)したことを記念して作られたメダルなども展示される。また、日本二十六聖人記念館(同市西坂町)と長崎県美術館(同市出島町)でも列福式関連企画展がある。問い合わせは同県文化振興課=095(895)2764。

=2008/08/22付 西日本新聞朝刊=

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/42770


ローマ・カトリック教会による日本人奴隷売買・貿易


鬼塚英昭氏の著「天皇のロザリオ」(P249~257)は、次のように述べている。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。 肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布

十条で日本人奴隷の売買が禁止される。これが大きかったのでしょうね。 
家康はそれら一連の出来事をよぉく知っていた。
それ故キリスト教禁止政策が継がれたのは、日本にとって幸いしました。

「ウィリアム・アダムスとカトリック教会の対立」その他を参照する。

秀吉亡き後、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれていくことになる。
1600(慶長5)年、豊臣政権の五大老を努めていた家康は、豊後に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長で、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)を家臣として召し抱えた。
しかし、これは相当な厄介を招いた。
即ち、当時のオランダ、イギリスはプロテスタントの国で、スペインなどカトリック国と敵対していた。
家康に召抱えられたアダムスらは、家康に西欧の宗教事情を吹き込み、カトリック系の世界植民地化構想を暴露する惧れがあった。
そういう予見から、在日カトリック系宣教師達は、プロテスタント教徒であった、アダムス以下 リーフデ号の乗組員を処刑するように家康に申し出たり、一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりした。
さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫っている。
ヨーロッパの宗教対立がそのまま極東の島国に持ち込まれた図式であった。
しかし、家康から見れば、ポルトガル、スペイン以外の貿易相手が出現したことになる。
それを良しとした家康の決断により、在日カトリック系宣教師達の試みはいずれも失敗に終わった。

政権を握った徳川家康は、初期の頃、宣教師の布教活動を許可・黙認した。
それは、ポルトガルやスペインとの貿易の利点の方が優った為であった。
以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師が来日するようになった。

1609(慶長13)年、長崎で「マードレ・デ・デウス号事件」が勃発

これは、前年にキリシタン大名として知られる有馬晴信の朱印船が、マカオに寄港した際、晴信の家臣である朱印船乗務員とポルトガル人が争い、60余名の日本人が殺害される事件に端を発している。
翌年、この事件に関与したアンドレ・ペッソアが、通称マードレ・デ・デウス号に乗って長崎に来航し、家康に釈明した。朱印船の生き残った乗組員から事件の顛末を聞いた長崎奉行・長谷川左兵衛は、家康の前で彼らの弁護者となった。家康は、有馬晴信に命じてペッソアを召喚させようとしたが、ペッソアはこれに応ぜずデウス号に乗り込み出帆しようとした。
これに対し、有馬晴信は、長谷川左兵衛らとデウス号を包囲攻撃し、4日目にデウス号は沈没した。
これを「マードレ・デ・デウス号事件」と云う。

この事件をきっかけに、家康はキリシタン弾圧へと傾斜していく。
キリシタンの春は終わりを告げ、一足飛びに厳しい冬を迎えていくことになった。

1611(慶長11)年、に来日したスペイン使節が、諸港を測量した。
その目的を家康から訪ねられたアダムスは、「エスパーニャ(スペイン)は、まずカトリック托鉢修道士たちを派遣し、彼らの後で兵士たちを送り込みます。
このようなやり方で外国を支配下に入れていきます。
そのために各港にどの船が入港できるか知るためです」と述べ、すべてのカトリック宣教師を国外に追放すべきであると進言した。
 
家康が、プロテスタント教徒アダムスを重用しスペイン、ポルトガルとの通商、国交を閉ざす意志を明確にするや、カトリック側は、ついに、日本全国を、親カトリック陣営と、反カトリック=親プロテスタント陣営と、真二つに分裂させ、反カトリックの徳川幕府政権を武力で転覆する大作戦構想を立てた。
親プロテスタントの徳川幕府政権はプロテスタント国家オランダ・英国を味方につけた。

カトリック信者に信仰を捨てるよう に命じ、従わない者は死刑にした。 家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、
大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師までいた。

1624年、江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じた。
1633~34年、徳川幕府は日本鎖国令を発し、スペインとの外交を閉ざした。
全国に寺請け檀家制度を設け、全国民を仏教寺所属の信徒として登録させた。
これによりキリシタンを取り締まった。
更に、5人組制度による相互扶助及び監視密告体制を作り上げた。
イエスや聖母マリアの聖像を踏ませる「踏み絵」による摘発が続いた。
これによって信仰の有無を判断するというのは日本独特の遣り方であった。

家光は、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」。
1637~38年、キリシタン勢力による島原・天草の乱が起り、約4万人の農民が一 揆を起こして、「全滅」した。
原城で信徒2万7千余人が殉教した。これをようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、 朝鮮やプロテスタント国家オランダとの通商はその後も続けられたので、正確には カトリック・キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。

【豊臣秀吉の危惧】


カトリック・イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582.12.14日付けでマカ オからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに、次のような手紙を出している。
これによれば、スペイン国王によるシナの植民地化が狙われており、カトリック・イエズス会東インド巡察師がその手引きをしていることが判明する。
但し、日本は様々な事由で征服の対象としては不向きであるとも述べている。 但し、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、と述べている。

1584年、宣教師スパ ル・コエリョやルイス・フロイスら30余名の一行が、落成したばかりの大阪城に出向いている。この時のことかどうは分からないが、秀吉は南蛮服を着たり、牛肉に舌鼓したと伝えられている。

キリシタン宣教師の中で、カトリック・イエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョが最も行動的であった。
当時の日本は準管区であったので、コエリョは、イエズス会の日本での活動の最高責任者であった。

1585(天正13)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。
その際に、大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。
さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と申し出ている。
当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったので、それは有り難い申し出であった。秀吉は、コエリョの申し出に満足したが逆に、カトリック・イエズス会がメキシコやフィリピンを征服したように、我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

これによれば、当時、カトリック宣教師は軍事コンサルタントも兼ねていた様子が判明する。
シナ攻略にカトリック宣教師が一枚噛んでいたことも判明する。
秀吉が九州平定のために博多に下ると、カトリック宣教師コエリョは自ら作らせた、平底の日本にはまったくない軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。
秀吉の軍をおおいに驚かせた。

1587.7.24日(天正15.6.19日)、豊臣秀吉が、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったように箱崎の陣にあった秀吉は突然宣教師達を呼びつけ、「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。


軍事力を誇示するカトリック宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。 これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。
以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。 続く措置として秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。

近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、 キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。
ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。

【「伴天連(ばてれん)追放令」の根拠考】


「伴天連(ばてれん)追放令」を野蛮な宗教弾圧と思うべきだろうか。
通俗的歴史書は、キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていないが、そういう観点は早急に見直されるべきではなかろうか。
そもそも、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対して当初は好意的であった。
しかし、信長の時代はともかく秀吉の頃になるとカトリック宣教師たちの植民地化活動が目に余り始めた。
秀吉は、宣教師たちの間に日本占領計画が存在することを見抜いて危険視するようになった。
その具体的措置として「伴天連(ばてれん)追放令」を発したことになる。

その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
カトリック宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。
彼らカトリック宣教師が敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、遂には植民地化するという政策が常套化していた。
秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。

その2、「植民地政策と重複しているが、カトリック布教は建前で、実は略奪ビジネスである」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。
カトリック宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。

その3、「カトリック宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」
という観点からのキリシタン禁止令であった。
ルイス・デ・アルメイダは、カトリック・イエズス会の神父として来日したが、カトリック宣教師たちの生活を支えたり、育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。
秀吉は、カトリック準管区長コエリヨに対して、次のように命じている。
「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。

【「宣教師の反撃」】


秀吉は、カトリック準管区長コエリヨに対し、凡そ以上の視点からの詰問をした。
しかし、カトリック準管区長コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答であった。
高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはカトリック準管区長コエリヨに進言したが、彼は彼らの制止を聞き入れなかったばかりか、ただちに有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は 金と武器弾薬を提供すると約束し、長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。2、3百人のスペイン兵の派兵が あれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリピンに要請した。
これは先にカトリック巡察使ヴァリニヤーノがカトリック準管区長コエリヨに命じておいたことであった。

しかし、頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見て、カトリック巡察使ヴァリニヤーノはその能力がないと判断し戦闘準備を急遽解除した。
この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。
カトリック準管区長コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。
これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、カトリック宣教師が送られて来たという事実を認めるほかない。

キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をカトリック・イエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。
しかし、この計画は未遂に終わった。

【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】


秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。
文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。
慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。
二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった

秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。
が、スペインやポルトガルのカトリック宣教師の入れ智恵であったという説もある。
カトリック準管区長コエリョは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。
しかし、カトリック準管区長コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。

1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。
いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰にカトリック宣教師達の巧言があったことが推定でき、秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。

1596.10月、台風のため土佐の浦戸湾に漂着したスペイン船の積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、スペイン国王によるカトリック宣教師派遣には、領土征服の意図が含まれているという趣旨の水先案内人の発言が為された。
これを「サンフェリペ号事件」と云う。12月、秀吉は再び禁教令を発し、京都に住むフランシスコ会員とカトリック教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。

慶長元年(一五九六年)五月、土佐の浦戸付近に、スペインの商船、サン・フィリップ号が座礁した。
豊臣秀吉は、すでにその九年前(天正十五年)、九州を平定すると共に、キリシタンを禁止、スペインとの通商を断っている。
それ故、この難破船の貨物は没収された。
その時、この船の船長デ・ランダは、秀吉が派遣した増田長盛の前に世界地図を広げ、「わが国王の領土は、世界にわたってかくの如く広大である。この大国の国民を虐待せば、容易ならぬ禍を招きしが承知のうえか」、と威嚇した、と云われている。
長盛が、「いかにしてこのように広大な領土をあわせ得たのか?」とたずねたところ、ランダ船長は、「その手段はまず、カトリック宣教師を入りこませ、キリスト教をひろめて土人を手なずけ、しかるのちに軍隊を送り、信徒と相呼応してその国を征服するのだ」と、広言した(本音を言ってしまった)、という。
この事件は、秀吉の死の直前のことだ。

■キリシタン大名・有馬晴信■


もそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗したのは、現実的な理由であった。
近隣を支配する強大な龍造寺隆信に対抗するために、キリシタン大名の大友純忠と同盟する事を決意し、そのために改宗を願い出た、とルイス・フロイスは『日本史』に記している。

洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャーノに伝えられ、晴信は領内の寺社を破壊し、領民を改宗させるという約束の上で、洗礼を受けた。ヴァリニャーノは晴信に兵糧と鉛、硝石などの軍事物資を提供して、支援を行った。

晴信は約束通り、領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求し、どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国から出て行くように命じた。
晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し、仏教徒の目の前で放火したりした。
またキリシタンと僧侶の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超える人々が改宗したという。

晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。

■戦って死ぬことで天国へ行ける■



天草四郎率いる一揆勢は島原に引き揚げ、12月1日に南有馬地区にある廃城・原城(はらのしろ)に籠城した。
その人数は一説に、3万7千人と言われている。ここから翌年2月28日の落城まで、4ヶ月に渡る幕府軍との攻防が繰り広げられる。

四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうすれば天国へいけるであろう、しかしそれを怠れば地獄へ堕ちるであろう」と籠城の一揆勢に督戦した。
戦って死ぬことで天国へ行ける、という教えである。

幕府軍は当初、強引な攻撃をしかけて、総大将・板倉重昌が戦死するという大きな被害を受けると、その後は城を包囲して、兵糧攻めにする作戦に出た。
上述の矢文のやりとりも、この時に行って懐柔に出ている。
この間に、一揆勢からは約1万人ほどが、水汲みなどで城を出た際に、幕府軍に投降している。

また平戸にいたオランダ船にも、原城を砲撃させた。この作戦については幕府内からも「外国船を動員するのは、日本の恥」という批判が出たが、作戦を立てた幕府上使・松平信綱は次のように答えている。

拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、我々は「南蛮国」と通じているのでやがて「南蛮国」から援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、その「異国人」(つまりオランダ)に砲撃させれば、「南蛮国」さえあの通りではないかと百姓も合点が行き、宗旨の嘘に気がつくのではないか、と思ったからであり、日本の恥になるとは思いもよらなかった。

カトリック国ポルトガルからの援軍を頼むキリシタンたちを、プロテスタント国のオランダ船が攻撃するというのは、まさに欧州における両宗派の代理戦争という趣である。

■奴隷日本人秘話■


日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。
しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」というポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。
この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。
だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」といった受取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。
だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。
あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。
ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」 といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。
由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。
そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。
だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。

そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。
さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を、奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。
西暦1603年(慶長八年)には、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、
白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。
インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。
さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。
この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。
さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。
ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。
そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。
「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」
「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。
それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?
これまでの日本史では極秘である。
というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。
真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。
器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。
しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。
みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。
よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたカトリック・ドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。
戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。

■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような手紙を出した。

 私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。

 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。

 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
[1,p83]

 「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、というのである。

■日本もメキシコ、フィリピンと同じ運命をたどる危機があった■

 実はこれは日本人にとっても他人事ではない。戦国時代にスペインやポルトガルからカトリック教の宣教師がやってきたときに、日本が信長や秀吉のようなすぐれた人物に恵まれず、また民族的なエネルギーも不足してゐたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。

 イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、その少し前に伝わった鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。
そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、九州の神社仏閣を破壊し、さらに明の侵略に使おうとしてのである。

 秀吉は、明がスペイン人に征服されては、元寇と同じ事が起こると考え、外国人バテレン追放令を出し、さらに先手をとろうと明征伐に向かったのである。(歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せているので、キリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としか描けない)

秀吉は、準管区長コエリヨに対して次のように命じている。


>「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。
北國新聞(2002.7.9日付)の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れている。豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べている。「バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった」。

大河ドラマでも高山右近などのキリシタン大名が出てくるが、娘たちを火薬一樽で娘50人を売った事などはドラマには出てこない。しかしこのようなことがカトリック教に対する日本国民のイメージが悪くなり、ローマ・カトリック教は日本ではいくら宣教師を送り込んでも1%も信者が増えない。
かつてローマ・カトリック教は人さらいをした宗教と言うDNAが、埋め込まれてしまったのだろう。

歴史教科書などではキリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。
しかし秀吉に宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、だんだん危険視するようになり制限を設けたが、
神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が,秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。


http://www.gameou.com/~rendaico/nihonchristokyoshico/zinshinbaibaico.htm


織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人がこの時代にいなければ、今ごろ、日本人はスペインの植民地にされ、スペイン語を話す民族になっていたかもしれません。

欧米列強はその後も征服事業を続け、日本が開国を迫られる頃にはエチオピア、タイ、日本を除いて他の国は全て帝国主義の支配下に置かれ、有色人種は奴隷として使役されていました。

こうした事実を日本人一人一人知る必要があります。

特に、日本は戦前アジアを侵略したひどい国であり、日本人は生まれもって罪を背負っていると思い込んでいる日本人は認識を改める必要があります。

民度が低く、残虐非道な歴史を歩んできたのは白人であり、つい最近まで有色人種を奴隷にしてきのはやはり白人です。今現在もなお、有色人種を完全な人間とみなさず、蔑視・差別しているのは白人です。

人類の歴史は争いの歴史です、大量の血を流してきました。痛みのなかで人類はその精神を進歩してきたわけですが、その歩みを他のどの民族よりも進めていたのは実は日本人です。

世界で初めて人種差別撤廃を国際社会に求めたのは日本です。

日本ほど、平等意識が高く、格差が少なく、他人を配慮する国はありません。

日本人もまだまだ、未熟ですが、白人ははるかかなた後方を歩んでいます。


日本人の皆さん、日本人であることにコンプレックスをもつ前に世界を見渡しましょう。

日本が悪い国なら、日本以外の国は地獄です。

日本人が悪い人間なら、日本人以外は悪魔です。

世界に出てみればわかります。

それほど、国際社会は過酷な社会なのです。

日本で大騒ぎになる差別は海外に行けば当たり前、日本で感じる差別は蚊に刺された程度です。

日本で暮らされることのありがたみが外国に行けば身にしみてわかるでしょう。