明日の準備でまだまだ帰れませんが、ここで今までのDANCE@LIVE、そしてこれからのDANCE@LIVEの形を話したいと思います。
まず、俺が東京に上京をしてきたのが1999年。もう11年前になります。
当時、ダンサー兼サッカー選手兼役者を本気で目指していた俺は(バカだと思うだろうけど本気でやればなれると思っていた 笑)上京後、どうしたらなれるかを考えていた。
日々過ごしながら、サッカー選手は希望大学の部活に入れなくて、断念。そして役者は下北の電柱に貼ってあったチラシを見てオーディションを受けて入ったとある団体で修行したり、ドラマに映画にとやっていたが、『高校教師2』に出演した時、撮影時の待ち時間の長さで、この時間ダンスやってたいかもと思いだして、ダンサーの道一本に絞った。これまでの期間で2年間。
そしてダンス一本に絞って、Xyonのキヨシとサトルとどうやったら有名になれるのか?とか、コンテスト出てみようとか、考えてた。地方に呼ばれるとかゲストで呼ばれるってどうやったらなるんだろうか???ってホントにわからなくて、ガムシャラに練習するしかないと、毎日なかのZEROホールで朝まで練習していた。(その当時セイゴは、ゆる~~~いハウサーで、クラバーで一緒のチームだが一緒には踊っていなかった)
朝からガソリンスタンドでバイトして、夜は朝までダンスの毎日。20時くらいから5時くらまでダンスをやってたなあ。ほぼ毎日ね。なんか練習しないと家にいても落ち着かなくてね。でも中々ダンスって上手くならないんだよね。苦笑
そんな生活だから正直大学は全く行ってなかった。
大学行っても、周りはみんなやりたいことがある訳でもなく、就職出来る所を探していた。そう、その企業を選んだのも受かればいいや的な感じで、絶対にここに入ってこういう仕事をしたいんだ!というのがあまりいなかった。なんでやりたいことないんだろう?って普通に思った。
大学が全く面白く無く、キヨシとばっか踊ってた。(キヨシはそれでもちょいちょい行ってたけどね 笑)
その頃夢中になってた番組『RAVE2001』
テレビ東京で放送されていた全国エリアのダンス番組。SAMさんがやっていた。
若いのにみんなめっちゃ上手くてね。刺激になったし、ダンス界の盛り上がりを徐々に感じて来ていた。
が、その番組も2年くらいなのかな、終わってしまい、そこからまたダンスが一時の盛り上がりを徐々に無くして行く。
ダンス界の流行は、常に地上波のダンス番組と連動している。
ダンス甲子園、DADA、ファントマ、RAVE2001。など
ダンス番組がある時は、必ず盛り上がり、特にダンス甲子園なんかは驚異的な人気を誇り、20時からという超ゴールデンのビートたけしの『元気が出るテレビ』の看板コーナーだった。
江ノ島に2万人集まったり、全国でダンスフィーバー。LL BROTHERSという超スーパースターが出たのもこの頃。俺は小学生だった。
母さんがダンスの先生をやっていた事もあり、地元長崎のストリートダンスチームとも親しくさせて頂いていた俺は、ダンス甲子園を見ながら、プロになりたいと母さんに話していた。
それだけ、テレビに写るダンサーの姿がカッコよくて。カッコよくて。。。
RAVE2001でまたダンスのブームが来ていた。その時のスーパースターだった、てつ男(今のSHINJIは7DOWN8UPPERを)にあかいけのりあきからいとうなおきまで(後のSPECIAL GUEST)、So Deep、Rhytmic Act(後のSYMBOL-ISM)、PYRO、他にも沢山あるが、クラブで超人気でショーイベントがギュウギュウ、半端ない盛り上がりでね。
確実にダンスの番組が、ダンサーの認知度を上げて、一般のファン層までを獲得していくチャンスを得ていたんだ。
ところが、RAVE2001が終わりを迎える(2年か、2年半か)。
この頃からまたダンスブームが落ち着きを見せて行く。まだ今のようにキッズダンサーはいない。
RAVE2001に出るとこを目指していたんだが、その目標をDANCE DELGHTに変えた。
DANCE DELGHTは日本で一番のコンテストだ。ここで有名になれればゲストとしての扱いに一番近道になる。
挑戦し始めて2年か、くらいで初の決勝進出。すんげ~泣いたのを思い出す(サトルは酒飲んで笑ってたけどね 笑)*思えばこの頃かな、会社起こしたの。24歳だった。
大学5年生で会社を作っていた(当時23歳)俺は、、、え!?5年生???
そうそう、別の話になるから短く話すけど、当時俺の大学の法学部だけ、ストレートに上がれるんだ。単位に関係なくね。で4年まで行ったんだけど、学校は行ってないし、学年末のテストの時にグアム旅行が懸賞で当たって、そっちに行ったりしてしまい、築けば5年生に。。。
あら!?キヨシは???
ちゃっかり卒業してました 笑
で、周りは就職活動してたんで、俺はやりたいことを仕事にしたくて、その当時考えていた事を仲間に話をしていた。
就職なんて全く考えなかった。
別に怖くも無かった。何でもやれば出来るだろうと思ってたし、そう親父からも母さんからも教えられて育ったから。
その時期に俺が仲間に何を話していたのかが今後の俺の人生を大きく動かす事になる。
あるなかのZEROでの練習仲間AとBに、中野のバーミヤンで話を聞いてもらった。
ダンス界って、このままプロの線引きも誰も引いてくれないのかな?どこからがプロなんだろう。どのくらい稼げて仕事になれるのか?コネが無いとバックダンサーの仕事はもらえないのか?結局はダンサーって仕事じゃなくて遊びなのかな?バックダンサーではなく、主役になれないかな?
なんて色々な疑問や自分の意見を言ってね。
黙って二人は聞いてくれてた。
最後に俺は彼らに、誰かが作ってくれると思って待ってたけど、多分無理だから、俺やってみようと思うって。ダンサーで有名になりたかったんだけど、その場所が無かったから、俺がその場所を作ろうと心に決めた瞬間だった。
そう決めたと同時に、ある種裏方になってしまう事ももちろんわかっていたし、覚悟が必要だった。
俺は、本当に誰かがダンサーが主役の舞台、アーティスト、の世界を作って欲しいと熱望していたし、それが出来たら、そこを目指したいと考えていただけに、正直複雑だった。
昔からメジャー志向だったと自分でも思う。
アングラとメジャーは表裏一体。メジャーが大きくなればなるほど、アングラの格好良さが際立つ。
逆にアングラがないとメジャーも成熟しない。
俺はその自分の中のメジャー志向の部分をダンス界に見いだす事が出来れば、一般で言うプロ、職業という部分を言えると思って、イベントを作ろうと思った。
そうしてイベントの構想を、その当時一緒にディライトとかにも出るようになってたXyonの中のしっかりもののセイゴと、今の取締役の大将とざっくばらんに話していた。
俺の家で、飯食べながら作戦考えていた時にみんなでたまたま見ていたのは、そう。K-1だった。
K-1は、空手などの男臭い格闘技がメジャーのエンターテイメントステージになったその当時斬新なイベントだった。誰も知らない様な選手が、注目を浴び、番組に出演し、そして富と名声を手に入れていった。
これをダンス界で、ダンス界流に変えて、面白くしてみよう!3人の中で意見がまとまった。
その頃、いつものようになかのZEROで練習していたら、先日メシを食べながら相談を聞いていてくれたAとBから呼び出しをくらい、またバーミヤンだったかな。一緒に行った。
何気なく注文して、ざっくばらんな会話をして、俺の夢を聞いて来たので、ダンス界でこういったシーンを作り、新しいプロの形、それに関わる色々な派生するものの価値について、またいつの間にか熱く語っていた。
食事が終わった頃、テーブルにはお茶くらい。
おもむろに二人が封筒を俺に出して来た。
Aは20万円、Bは30万円。
え!?何?このお金は?
固まる俺。
二人は、先日のご飯の時の話を聞いて、俺にお金を渡したい。それで少しでもその夢を応援したいと言ってくれて、自分の貯金全財産を俺に持って来てくれたんだ。。。
俺は二人が生活がきついの知ってたし、なんで?って思ったけど、嬉しすぎて泣きまくった。
二人は、笑顔で、返すのいつでもいいから、頑張ってくれや!って。
俺は、本気で絶対何が何でも自分が望む形を見せたいって思った。
その日から、更に俺は変わった。走り続ける事を決めた大事な日だった。
会社は作ったものの、資本金は役員3人で500円づつで作った確認有限会社アノマリーだった。つまり資本金1500円の有限会社。5年以内に300万円の資本金にしないと解散をしないといけないという特殊な法人。
会社の貯金はもちろん無かった。でもここに来て、AとBの熱い気持ちの50万。そして、俺が留学しようとガソスタで貯めてた10万円の60万円が手元にあった。
とりあえずの資金作りにと、その中の金額でTシャツ作って販売したりして、ちょこちょこ貯めては、すぐ元に戻る。いやあ資金繰りっていうのを軽く学んだ。そうこうして60万は結局あまり変わらないまま。
前の会議で決まったK-1みたいなことをとりあえず形にする為に、色々な先輩の方々に審査員、ゲストなどをお願いする事ができ、記念すべき第一回目のDANCE@LIVEを今は無い六本木のCOREで行う事が出来た。
名前の由来は、DANCE で ALIVE(生きる) と、アメリカの伝説の番組ALIVE TVを掛けたりして、DANCEALIVEと名付けた。このままだと普通なんで、Aを@にした(aの代わりに@を使う場合があるので)。@をアットではなく、アと呼ぶ事をまだ知らない人もいるのだが、ここにダンスアライブの誕生である。
1VS1でダンスでバトル。勝ったダンサーが優勝賞金を手にして口コミでも有名になれるように、その当時の賞金額で破格の10万円。ソロで優勝して10万円はみんなびっくりだった。
バトルの形式も、今のとはあまり変わらない。審査方法はダンス界の大御所(経験とダンス感、そして審査員の実力)が自分の価値観でジャッジをする。
実はここが他の勝敗がつくもので一番曖昧で難しいものではあるが、ストリートダンスは表現の世界なので、この曖昧さを無くすとストリートでは無くなるため、この審査基準に決めた。
最近ではジャッジ陣に一般の方も入れて、違った目線でのジャッジの一票も入れたりしている。
1回目のDANCE@LIVE 六本木COREは集客も、盛り上がりも大成功だった。ただひとつ、お金の面を除けば。。。
赤字が60万円。現実だった。
貯金60万円あったのが、マイナス60万円。。。
何故?
箱代、賞金、ゲスト、DJ、MC、フライヤー、バイト、他にも色々と経費がかさみ結果として60万のマイナス。
そう、人は入ったのだが、エントリー者以外は、先輩だったり仲間だったりでタダで会場にいれていたのだ。でもこれは若いうちらがイベントをやる上で、ある種の必然だった。先輩や、仲間からお金をもらえなかった。
みんな喜んでくれた。バトルってこんなのなんだ。面白いと興味を持つ人、悔しくてムカつく人、見るのが楽しかったという人、見るんだったら出れば良かったという人、様々な感想をもらえたが、でもやってよかった、方向性は間違えていないと思った。
が、マイナス60万円が重くのしかかる。。。ドーン。。。
役員3人、それぞれバイトなどをやっていた。俺は引き続きガソスタ、セイゴはアパレル店員、大将はとある企業でのサイト運営。マイナス分を補填し合った。
どうする?これでもやる?どうしようか? 打ち合わせをしては達成感と焦燥感の交互で悩んでいた。
でも、結果続けないと何も起こらないでしょう!やると決めた以上、やるしかないんじゃないかな。
結果続ける事で3人で合意。次回の日程も考えて、そして来る2回目。
盛り上がりは前回と変わらず大盛り上がり、エントリー者もちょっと増加。(当日のクラブ入り口での人の入りは今でもビクビクする。ほんとに人は来てくれるだろうか?って)
結果は、、、
40万くらいのマイナス。。。ジーザス。。。
それなのに、2回目にして、俺はマイクでみんなの前で、ダンスアライブは3回予選をやったあと、決勝大会をスタジオコーストでやります!!!って言ってしまった。何の宛も無く、まだスタジオコースト行った事もないのに。。。
スタッフ呆然 笑(何を言ってるんだカリスマはって)
もちろんダンサーも笑っていた。絶対に無理だろって。仲間にも言っちゃったね~、厳しいっしょ。ってな感じで。もちろん応援はすると言ってくれた。
日本最大のクラブであるスタジオコーストは、その当時ダンスイベントなんて一つ年にあるかないかで、めちゃくちゃハードルが高い箱だった。大きすぎるクラブ、収容人数2500人。新木場という立地。正直想像がつかない。
ただ、みんながアライブのスケール(もしくは今後の予定、計画)がどれだけ大きいかを知って欲しくて、そして口コミでこのイベントがヤバいと言ってもらえるように、かましてやるって思って、スタジオコーストで決勝やるからって勢いで言っちゃった。
逆にみんなに言う事で自分たちにハッパかけて、勢いをつけたかった。
もう、1回目、2回目とマイナスだろうが関係ない!継続は必ず力になるし、このダンス界の市場を企業に見てもらえて、熱意を持って接する事が出来れば、必ずや道が開けると信念があって貫いて動いた。ガムシャラに働いた。ダンスの練習時間はもちろん減って行った。でも現役ダンサーがダンスのイベントを作る事が必ず武器になるし、ダンサーとの距離感、価値観も離れないと思い、ダンスは出来る限り練習した。ディライトにも出続けた。
そうこうしてるうちに、動くと人ってつながるもので、とある企業の方をご紹介頂いた。
6対1くらいで、完全に囲まれる様な形で、ある種面接みたいな感じでプレゼンをした。
結果、気に入ってもらい、とりあえず企画ありきで一緒に業務を行う事で合意。
あとで聞いた話だが、半端無く熱いトークに何か応援したくなってくれたそうだ。ダンスが好きだから自然と話にも熱が入るし、こういった世界を作って行きたいという軸が全くぶれないので、自信もって話が出来る。
やはり、企業も、人対人である。企業と話すのではなく、人と話をしてその人の心を動かして何かが始まる。
これの繰り返しだと今でも思う。
こういった出会いに一度恵まれると、そのループが大きくなっていく。数珠つなぎで色々な人を紹介される。そしてその人と会話して、熱く語り、また応援してもらえる。
1年目の決勝大会、気づけばスタジオコーストで行っていた。3回目の予選も同じく赤字ではあったが、その額は徐々に減っていた。その流れで決勝大会をコーストでという意識のもと、全員で頑張った結果1年目のDANCE@LIVEの決勝大会をスタジオコーストで行う事が出来たのだ。
正直奇跡としか言えなかった。
これにはみんなもびっくりしてくれた。
バトルというものをダンサーや一般人が果たして見に来るかは不安だったし、これでコケたらどうなるんだろうってめっちゃ怖かった。でもやるしか無かったし、もう多くの人を巻き込んでいた。
その決勝大会の日。朝からどしゃぶりの雨。めっちゃテンションが下がった。
会場に行き、設営を朝の8時から始める。
あっという間に1時間経って、9時。ちょっと外の天気を確認に。。。
あれ!?人がいる。。。え!?並んでないか???まだ雨どしゃぶりだぞ。。。
濡れながら確認しに行ったら、確実に人が並びだして来てる。。。
オープン14時半なんだけど。。。今9時だよ。。。思わず声かけた。
一番前で見たいので、並んでます!って。。。マジかよ!天国に昇る気分ってこのことか!!!
もちろんXyonみんなに報告に!みんなで超笑顔!これは今日いけるかもしれない!そんな風に感じた。
気づけば、橋を渡って駅まで長蛇の列(泣)。駅から苦情が来る(笑)。早く開場してくれないと、困るって。
予定より早く、開場。
結果として、2500人ものダンスフリークが開場を埋め尽くし、超絶大盛り上がり!
ダンス界では異例の会場で、異例のソロで賞金30万円でってとりあえず出来るだけの内容テンコ盛りにした!結果盛り上がってよかった!
もちろん終わったあとの反省の多さは凄かった。やったぜ~~~!って思ったのは最初の列見たときくらいで、あとはイベント進行から、細かい部分までめっちゃ反省して落ちた。苦笑
でもなんとか終えた1年目。これで一歩近づいた。
勝負はこれからだ!
(中略)ここから3年間も濃く、そして語る事が出来ないこともあり、省略させて頂くけど、いつの日か、自叙伝かなんかが出来た時に公開しますね 笑
そうして、明日5年目の決勝大会を両国国技館にて行う。
そう、5年間で軸として何も変わっていないもの。
『ダンサーが主役のステージを作りたい』
ダンスを見た事が無い人を、どれだけダンス界に引っ張りだせるか。
ダンサーという存在がもっと多くの人に認知され、そして文化として、エンターテインメントとして認められるか。
どこからがプロなのか。
ダンスだけで食って行けるか!
ダンスで親孝行できるか!
ダンスを通して世界中でどこまでの輪を作る事ができるか。
日本のシーンに、ダンサーが望むダンスミュージックシーンが出来るか。
ダンサーが主役になれるか。
まだまだ俺は仕掛けないといけない事が沢山あるし、止まってられない。
ダンスアライブで行える事には、限界もある。
バトラーになりたい訳じゃないけどプロを目指してるダンサーに対しての他の道も作らないといけないと思っています。
雇用体制がきちんと出来る世界もないとね。
カンパニー、バックダンサーなどの斡旋(エージェント制度)、教育、マネジメント、マーチャンダイズ、etc
番組も奇跡が起きまくって、今自分たちでやれています。これも長い間継続させたい、いや終わらせたくないです。
サッカー、野球、他にも遊びから生まれて、そのエンターテイメントにより多くの人がその恩恵を受け、職業になり、世界を動かしているものは沢山ある。(例にサッカーを挙げるけど、サッカーがあるだけでどれだけの人が働けてるか想像したら凄いから。選手だけじゃなく関係する全ての職業まで広げてみると凄いよ)
ダンスも絶対にそうなると確信している。メジャーがここまで大きくなればアングラも最高に盛り上がってるでしょうしね。
サッカーや、野球などが今のプロなどの世界が出来るまでの間を生きて来てないから、出来上がるまでを知らないけど、ダンス界はこれから変わる。その瞬間にこういった仕事をさせて頂いてるのは凄くありがたいし、幸せです。
もっと沢山のダンス界を変えたいと思っている人が、行動に起こせばもっと早くダンス界は変わって行くでしょう。
明日のDANCE@LIVE。5年間の集大成です!
見に来てもらったら、俺の気持ち少しは伝わるかなって思います!
明日、頑張ります!(こんな日記書く時間あれば寝ろよって感じだよね 苦笑)
PIECE!
カリスマカンタロー
まず、俺が東京に上京をしてきたのが1999年。もう11年前になります。
当時、ダンサー兼サッカー選手兼役者を本気で目指していた俺は(バカだと思うだろうけど本気でやればなれると思っていた 笑)上京後、どうしたらなれるかを考えていた。
日々過ごしながら、サッカー選手は希望大学の部活に入れなくて、断念。そして役者は下北の電柱に貼ってあったチラシを見てオーディションを受けて入ったとある団体で修行したり、ドラマに映画にとやっていたが、『高校教師2』に出演した時、撮影時の待ち時間の長さで、この時間ダンスやってたいかもと思いだして、ダンサーの道一本に絞った。これまでの期間で2年間。
そしてダンス一本に絞って、Xyonのキヨシとサトルとどうやったら有名になれるのか?とか、コンテスト出てみようとか、考えてた。地方に呼ばれるとかゲストで呼ばれるってどうやったらなるんだろうか???ってホントにわからなくて、ガムシャラに練習するしかないと、毎日なかのZEROホールで朝まで練習していた。(その当時セイゴは、ゆる~~~いハウサーで、クラバーで一緒のチームだが一緒には踊っていなかった)
朝からガソリンスタンドでバイトして、夜は朝までダンスの毎日。20時くらいから5時くらまでダンスをやってたなあ。ほぼ毎日ね。なんか練習しないと家にいても落ち着かなくてね。でも中々ダンスって上手くならないんだよね。苦笑
そんな生活だから正直大学は全く行ってなかった。
大学行っても、周りはみんなやりたいことがある訳でもなく、就職出来る所を探していた。そう、その企業を選んだのも受かればいいや的な感じで、絶対にここに入ってこういう仕事をしたいんだ!というのがあまりいなかった。なんでやりたいことないんだろう?って普通に思った。
大学が全く面白く無く、キヨシとばっか踊ってた。(キヨシはそれでもちょいちょい行ってたけどね 笑)
その頃夢中になってた番組『RAVE2001』
テレビ東京で放送されていた全国エリアのダンス番組。SAMさんがやっていた。
若いのにみんなめっちゃ上手くてね。刺激になったし、ダンス界の盛り上がりを徐々に感じて来ていた。
が、その番組も2年くらいなのかな、終わってしまい、そこからまたダンスが一時の盛り上がりを徐々に無くして行く。
ダンス界の流行は、常に地上波のダンス番組と連動している。
ダンス甲子園、DADA、ファントマ、RAVE2001。など
ダンス番組がある時は、必ず盛り上がり、特にダンス甲子園なんかは驚異的な人気を誇り、20時からという超ゴールデンのビートたけしの『元気が出るテレビ』の看板コーナーだった。
江ノ島に2万人集まったり、全国でダンスフィーバー。LL BROTHERSという超スーパースターが出たのもこの頃。俺は小学生だった。
母さんがダンスの先生をやっていた事もあり、地元長崎のストリートダンスチームとも親しくさせて頂いていた俺は、ダンス甲子園を見ながら、プロになりたいと母さんに話していた。
それだけ、テレビに写るダンサーの姿がカッコよくて。カッコよくて。。。
RAVE2001でまたダンスのブームが来ていた。その時のスーパースターだった、てつ男(今のSHINJIは7DOWN8UPPERを)にあかいけのりあきからいとうなおきまで(後のSPECIAL GUEST)、So Deep、Rhytmic Act(後のSYMBOL-ISM)、PYRO、他にも沢山あるが、クラブで超人気でショーイベントがギュウギュウ、半端ない盛り上がりでね。
確実にダンスの番組が、ダンサーの認知度を上げて、一般のファン層までを獲得していくチャンスを得ていたんだ。
ところが、RAVE2001が終わりを迎える(2年か、2年半か)。
この頃からまたダンスブームが落ち着きを見せて行く。まだ今のようにキッズダンサーはいない。
RAVE2001に出るとこを目指していたんだが、その目標をDANCE DELGHTに変えた。
DANCE DELGHTは日本で一番のコンテストだ。ここで有名になれればゲストとしての扱いに一番近道になる。
挑戦し始めて2年か、くらいで初の決勝進出。すんげ~泣いたのを思い出す(サトルは酒飲んで笑ってたけどね 笑)*思えばこの頃かな、会社起こしたの。24歳だった。
大学5年生で会社を作っていた(当時23歳)俺は、、、え!?5年生???
そうそう、別の話になるから短く話すけど、当時俺の大学の法学部だけ、ストレートに上がれるんだ。単位に関係なくね。で4年まで行ったんだけど、学校は行ってないし、学年末のテストの時にグアム旅行が懸賞で当たって、そっちに行ったりしてしまい、築けば5年生に。。。
あら!?キヨシは???
ちゃっかり卒業してました 笑
で、周りは就職活動してたんで、俺はやりたいことを仕事にしたくて、その当時考えていた事を仲間に話をしていた。
就職なんて全く考えなかった。
別に怖くも無かった。何でもやれば出来るだろうと思ってたし、そう親父からも母さんからも教えられて育ったから。
その時期に俺が仲間に何を話していたのかが今後の俺の人生を大きく動かす事になる。
あるなかのZEROでの練習仲間AとBに、中野のバーミヤンで話を聞いてもらった。
ダンス界って、このままプロの線引きも誰も引いてくれないのかな?どこからがプロなんだろう。どのくらい稼げて仕事になれるのか?コネが無いとバックダンサーの仕事はもらえないのか?結局はダンサーって仕事じゃなくて遊びなのかな?バックダンサーではなく、主役になれないかな?
なんて色々な疑問や自分の意見を言ってね。
黙って二人は聞いてくれてた。
最後に俺は彼らに、誰かが作ってくれると思って待ってたけど、多分無理だから、俺やってみようと思うって。ダンサーで有名になりたかったんだけど、その場所が無かったから、俺がその場所を作ろうと心に決めた瞬間だった。
そう決めたと同時に、ある種裏方になってしまう事ももちろんわかっていたし、覚悟が必要だった。
俺は、本当に誰かがダンサーが主役の舞台、アーティスト、の世界を作って欲しいと熱望していたし、それが出来たら、そこを目指したいと考えていただけに、正直複雑だった。
昔からメジャー志向だったと自分でも思う。
アングラとメジャーは表裏一体。メジャーが大きくなればなるほど、アングラの格好良さが際立つ。
逆にアングラがないとメジャーも成熟しない。
俺はその自分の中のメジャー志向の部分をダンス界に見いだす事が出来れば、一般で言うプロ、職業という部分を言えると思って、イベントを作ろうと思った。
そうしてイベントの構想を、その当時一緒にディライトとかにも出るようになってたXyonの中のしっかりもののセイゴと、今の取締役の大将とざっくばらんに話していた。
俺の家で、飯食べながら作戦考えていた時にみんなでたまたま見ていたのは、そう。K-1だった。
K-1は、空手などの男臭い格闘技がメジャーのエンターテイメントステージになったその当時斬新なイベントだった。誰も知らない様な選手が、注目を浴び、番組に出演し、そして富と名声を手に入れていった。
これをダンス界で、ダンス界流に変えて、面白くしてみよう!3人の中で意見がまとまった。
その頃、いつものようになかのZEROで練習していたら、先日メシを食べながら相談を聞いていてくれたAとBから呼び出しをくらい、またバーミヤンだったかな。一緒に行った。
何気なく注文して、ざっくばらんな会話をして、俺の夢を聞いて来たので、ダンス界でこういったシーンを作り、新しいプロの形、それに関わる色々な派生するものの価値について、またいつの間にか熱く語っていた。
食事が終わった頃、テーブルにはお茶くらい。
おもむろに二人が封筒を俺に出して来た。
Aは20万円、Bは30万円。
え!?何?このお金は?
固まる俺。
二人は、先日のご飯の時の話を聞いて、俺にお金を渡したい。それで少しでもその夢を応援したいと言ってくれて、自分の貯金全財産を俺に持って来てくれたんだ。。。
俺は二人が生活がきついの知ってたし、なんで?って思ったけど、嬉しすぎて泣きまくった。
二人は、笑顔で、返すのいつでもいいから、頑張ってくれや!って。
俺は、本気で絶対何が何でも自分が望む形を見せたいって思った。
その日から、更に俺は変わった。走り続ける事を決めた大事な日だった。
会社は作ったものの、資本金は役員3人で500円づつで作った確認有限会社アノマリーだった。つまり資本金1500円の有限会社。5年以内に300万円の資本金にしないと解散をしないといけないという特殊な法人。
会社の貯金はもちろん無かった。でもここに来て、AとBの熱い気持ちの50万。そして、俺が留学しようとガソスタで貯めてた10万円の60万円が手元にあった。
とりあえずの資金作りにと、その中の金額でTシャツ作って販売したりして、ちょこちょこ貯めては、すぐ元に戻る。いやあ資金繰りっていうのを軽く学んだ。そうこうして60万は結局あまり変わらないまま。
前の会議で決まったK-1みたいなことをとりあえず形にする為に、色々な先輩の方々に審査員、ゲストなどをお願いする事ができ、記念すべき第一回目のDANCE@LIVEを今は無い六本木のCOREで行う事が出来た。
名前の由来は、DANCE で ALIVE(生きる) と、アメリカの伝説の番組ALIVE TVを掛けたりして、DANCEALIVEと名付けた。このままだと普通なんで、Aを@にした(aの代わりに@を使う場合があるので)。@をアットではなく、アと呼ぶ事をまだ知らない人もいるのだが、ここにダンスアライブの誕生である。
1VS1でダンスでバトル。勝ったダンサーが優勝賞金を手にして口コミでも有名になれるように、その当時の賞金額で破格の10万円。ソロで優勝して10万円はみんなびっくりだった。
バトルの形式も、今のとはあまり変わらない。審査方法はダンス界の大御所(経験とダンス感、そして審査員の実力)が自分の価値観でジャッジをする。
実はここが他の勝敗がつくもので一番曖昧で難しいものではあるが、ストリートダンスは表現の世界なので、この曖昧さを無くすとストリートでは無くなるため、この審査基準に決めた。
最近ではジャッジ陣に一般の方も入れて、違った目線でのジャッジの一票も入れたりしている。
1回目のDANCE@LIVE 六本木COREは集客も、盛り上がりも大成功だった。ただひとつ、お金の面を除けば。。。
赤字が60万円。現実だった。
貯金60万円あったのが、マイナス60万円。。。
何故?
箱代、賞金、ゲスト、DJ、MC、フライヤー、バイト、他にも色々と経費がかさみ結果として60万のマイナス。
そう、人は入ったのだが、エントリー者以外は、先輩だったり仲間だったりでタダで会場にいれていたのだ。でもこれは若いうちらがイベントをやる上で、ある種の必然だった。先輩や、仲間からお金をもらえなかった。
みんな喜んでくれた。バトルってこんなのなんだ。面白いと興味を持つ人、悔しくてムカつく人、見るのが楽しかったという人、見るんだったら出れば良かったという人、様々な感想をもらえたが、でもやってよかった、方向性は間違えていないと思った。
が、マイナス60万円が重くのしかかる。。。ドーン。。。
役員3人、それぞれバイトなどをやっていた。俺は引き続きガソスタ、セイゴはアパレル店員、大将はとある企業でのサイト運営。マイナス分を補填し合った。
どうする?これでもやる?どうしようか? 打ち合わせをしては達成感と焦燥感の交互で悩んでいた。
でも、結果続けないと何も起こらないでしょう!やると決めた以上、やるしかないんじゃないかな。
結果続ける事で3人で合意。次回の日程も考えて、そして来る2回目。
盛り上がりは前回と変わらず大盛り上がり、エントリー者もちょっと増加。(当日のクラブ入り口での人の入りは今でもビクビクする。ほんとに人は来てくれるだろうか?って)
結果は、、、
40万くらいのマイナス。。。ジーザス。。。
それなのに、2回目にして、俺はマイクでみんなの前で、ダンスアライブは3回予選をやったあと、決勝大会をスタジオコーストでやります!!!って言ってしまった。何の宛も無く、まだスタジオコースト行った事もないのに。。。
スタッフ呆然 笑(何を言ってるんだカリスマはって)
もちろんダンサーも笑っていた。絶対に無理だろって。仲間にも言っちゃったね~、厳しいっしょ。ってな感じで。もちろん応援はすると言ってくれた。
日本最大のクラブであるスタジオコーストは、その当時ダンスイベントなんて一つ年にあるかないかで、めちゃくちゃハードルが高い箱だった。大きすぎるクラブ、収容人数2500人。新木場という立地。正直想像がつかない。
ただ、みんながアライブのスケール(もしくは今後の予定、計画)がどれだけ大きいかを知って欲しくて、そして口コミでこのイベントがヤバいと言ってもらえるように、かましてやるって思って、スタジオコーストで決勝やるからって勢いで言っちゃった。
逆にみんなに言う事で自分たちにハッパかけて、勢いをつけたかった。
もう、1回目、2回目とマイナスだろうが関係ない!継続は必ず力になるし、このダンス界の市場を企業に見てもらえて、熱意を持って接する事が出来れば、必ずや道が開けると信念があって貫いて動いた。ガムシャラに働いた。ダンスの練習時間はもちろん減って行った。でも現役ダンサーがダンスのイベントを作る事が必ず武器になるし、ダンサーとの距離感、価値観も離れないと思い、ダンスは出来る限り練習した。ディライトにも出続けた。
そうこうしてるうちに、動くと人ってつながるもので、とある企業の方をご紹介頂いた。
6対1くらいで、完全に囲まれる様な形で、ある種面接みたいな感じでプレゼンをした。
結果、気に入ってもらい、とりあえず企画ありきで一緒に業務を行う事で合意。
あとで聞いた話だが、半端無く熱いトークに何か応援したくなってくれたそうだ。ダンスが好きだから自然と話にも熱が入るし、こういった世界を作って行きたいという軸が全くぶれないので、自信もって話が出来る。
やはり、企業も、人対人である。企業と話すのではなく、人と話をしてその人の心を動かして何かが始まる。
これの繰り返しだと今でも思う。
こういった出会いに一度恵まれると、そのループが大きくなっていく。数珠つなぎで色々な人を紹介される。そしてその人と会話して、熱く語り、また応援してもらえる。
1年目の決勝大会、気づけばスタジオコーストで行っていた。3回目の予選も同じく赤字ではあったが、その額は徐々に減っていた。その流れで決勝大会をコーストでという意識のもと、全員で頑張った結果1年目のDANCE@LIVEの決勝大会をスタジオコーストで行う事が出来たのだ。
正直奇跡としか言えなかった。
これにはみんなもびっくりしてくれた。
バトルというものをダンサーや一般人が果たして見に来るかは不安だったし、これでコケたらどうなるんだろうってめっちゃ怖かった。でもやるしか無かったし、もう多くの人を巻き込んでいた。
その決勝大会の日。朝からどしゃぶりの雨。めっちゃテンションが下がった。
会場に行き、設営を朝の8時から始める。
あっという間に1時間経って、9時。ちょっと外の天気を確認に。。。
あれ!?人がいる。。。え!?並んでないか???まだ雨どしゃぶりだぞ。。。
濡れながら確認しに行ったら、確実に人が並びだして来てる。。。
オープン14時半なんだけど。。。今9時だよ。。。思わず声かけた。
一番前で見たいので、並んでます!って。。。マジかよ!天国に昇る気分ってこのことか!!!
もちろんXyonみんなに報告に!みんなで超笑顔!これは今日いけるかもしれない!そんな風に感じた。
気づけば、橋を渡って駅まで長蛇の列(泣)。駅から苦情が来る(笑)。早く開場してくれないと、困るって。
予定より早く、開場。
結果として、2500人ものダンスフリークが開場を埋め尽くし、超絶大盛り上がり!
ダンス界では異例の会場で、異例のソロで賞金30万円でってとりあえず出来るだけの内容テンコ盛りにした!結果盛り上がってよかった!
もちろん終わったあとの反省の多さは凄かった。やったぜ~~~!って思ったのは最初の列見たときくらいで、あとはイベント進行から、細かい部分までめっちゃ反省して落ちた。苦笑
でもなんとか終えた1年目。これで一歩近づいた。
勝負はこれからだ!
(中略)ここから3年間も濃く、そして語る事が出来ないこともあり、省略させて頂くけど、いつの日か、自叙伝かなんかが出来た時に公開しますね 笑
そうして、明日5年目の決勝大会を両国国技館にて行う。
そう、5年間で軸として何も変わっていないもの。
『ダンサーが主役のステージを作りたい』
ダンスを見た事が無い人を、どれだけダンス界に引っ張りだせるか。
ダンサーという存在がもっと多くの人に認知され、そして文化として、エンターテインメントとして認められるか。
どこからがプロなのか。
ダンスだけで食って行けるか!
ダンスで親孝行できるか!
ダンスを通して世界中でどこまでの輪を作る事ができるか。
日本のシーンに、ダンサーが望むダンスミュージックシーンが出来るか。
ダンサーが主役になれるか。
まだまだ俺は仕掛けないといけない事が沢山あるし、止まってられない。
ダンスアライブで行える事には、限界もある。
バトラーになりたい訳じゃないけどプロを目指してるダンサーに対しての他の道も作らないといけないと思っています。
雇用体制がきちんと出来る世界もないとね。
カンパニー、バックダンサーなどの斡旋(エージェント制度)、教育、マネジメント、マーチャンダイズ、etc
番組も奇跡が起きまくって、今自分たちでやれています。これも長い間継続させたい、いや終わらせたくないです。
サッカー、野球、他にも遊びから生まれて、そのエンターテイメントにより多くの人がその恩恵を受け、職業になり、世界を動かしているものは沢山ある。(例にサッカーを挙げるけど、サッカーがあるだけでどれだけの人が働けてるか想像したら凄いから。選手だけじゃなく関係する全ての職業まで広げてみると凄いよ)
ダンスも絶対にそうなると確信している。メジャーがここまで大きくなればアングラも最高に盛り上がってるでしょうしね。
サッカーや、野球などが今のプロなどの世界が出来るまでの間を生きて来てないから、出来上がるまでを知らないけど、ダンス界はこれから変わる。その瞬間にこういった仕事をさせて頂いてるのは凄くありがたいし、幸せです。
もっと沢山のダンス界を変えたいと思っている人が、行動に起こせばもっと早くダンス界は変わって行くでしょう。
明日のDANCE@LIVE。5年間の集大成です!
見に来てもらったら、俺の気持ち少しは伝わるかなって思います!
明日、頑張ります!(こんな日記書く時間あれば寝ろよって感じだよね 苦笑)
PIECE!
カリスマカンタロー