※②の続きから。軽微な暴力・流血表現があります。
「はな……せ……!」
突如として洞窟に現れアキラをあっという間に組み敷いてしまった狼には、アキラの必死の抵抗も全く効き目がありませんでした。そもそも持っている力が違いすぎます。
「安心しろ、人間は不味いからな。腹は減っているが、食うつもりはない」
狼の姿でそう諭されても、恐怖が一層煽られるだけでした。それでも大人しく従えば最後、何か大事なものを失ってしまう――そんな予感がしました。アキラはせめて顔だけは背けてなるものかと、自分を奮い立たせました。
「……ッ!」
狼は前足を器用に使い、アキラの着ていたシャツをめくりあげました。傷一つない素肌があらわになります。まだ完全に乾いていなかった体は、洞窟に吹き込んでくる風に撫でられてぶるりと震えました。
おもむろに狼の舌が腹を這い、背中にぞくりと悪寒が走りました。その直後、突如として腹が燃え上がるような感覚がありました。
「ッつ……!」
爪で引っかかれたのだと気づいたのは、少ししてじんじんと響くような痛みを感じてからでした。
さらに信じ難いことに、狼はその傷跡を舐めてきました。
「なに、するんだ……!」
咄嗟に飛び出た蹴りも、狼にはそよ風ほどの衝撃も与えられなかったようです。狼は何食わぬ顔で再び爪を振りかざしました。
「っ……!!」
アキラの体に、新しい傷が刻み込まれました。今度は血が滲んできたようでした。痛みよりも、反撃できない屈辱感がアキラを苛みました。
「この傷は所有の証だ……」
耳元で低く響いた言葉に、今度こそアキラ中ではっきりとした怒りが燃え上がりました。恐怖は怒りの炎に焼き尽くされて灰になり、どこかへと散ってゆきました。
こんなふざけた獣の言いなりになんて、もう死んでもなるつもりはありません。
せめてもの抵抗をしようと、傷を踏みつけ抉るように爪を食い込ませてきた前足を掴み、叫びました。
「ふざけるな……! 放せ!!!」
「ふ……」
しかし狼から漏れたのは、笑いのような吐息でした。暗がりの中で漆黒の毛を纏った彼の表情はわかりませんでしたが、アキラの中で小さな絶望の芽が生まれてしまったことは否定できませんでした。
「必死に鳴くのは俺を悦ばせるためか? 殊勝なことだ」
そんな台詞と共に、腹を思い切り圧迫されて酷い吐き気がこみ上げてきました。耐えられずに吐き出した胃液が唇の端からこぼれて顔を汚しました。
「おまえとおまえを溺愛しているらしいあの男に、思い知らせてやる」
――この俺の存在を。
吐き捨てるように言い放たれた言葉のあと、体重すべてを使った圧迫によって体中の空気が抜けていきました。呼吸ができなくなって意識が遠のき、視界が真っ暗になりました。
消えてゆく意識の中で、ひとつの疑問が湧きあがります。
――「おまえを溺愛しているらしいあの男」というのは、誰なんだろう。
アキラを深く愛する人物など、まったく見当もつきませんでした。
神父さんも村の人たちも、身寄りのないアキラに良くしてくれました。それはあたたかい優しさではありましたが、果たして愛と呼んでよいものなのでしょうか。
実のところ、愛とはなんなのか、アキラにはわかりません。
神父さんの語る「隣人愛」は、たしかに誰の心にも宿っているのかも知れません。
それでもアキラと他人との間にはいつも見えないヴェールのようなものが垂れ下がっていて、決して触れることは叶わないのです。
そんなアキラにとって、愛という言葉はいつでもどこか遠い世界のもののように感じられました。
この狼は、アキラの何を知っているというのでしょうか。
知らないうちに向けられた愛を、アキラの理解できない愛を、知っているのでしょうか。
この狼は、何者なのでしょうか。
なぜこんな目にあわなければいけないのでしょうか。
この責め苦はいつまで続くのでしょうか。
まったくわかりませんでした。せめてひと思いに心臓を食いちぎられたほうがまだ楽だったでしょう。
ふいに圧迫が止んで、肺に勢いよく空気が流れ込んできました。
激しく咳き込んで、滲んだ涙で視界はふさがれたままでした。
「やめ、ろ……!」
胃液と唾液が絡んで喉が痛む中、しゃがれた声で抵抗の意志を示しました。
本当は降伏して楽になりたかったのですが、どうしてもできませんでした。
最後まで屈服してなるものかと、アキラの中にいる誰かが叫ぶのです。
まるで何か強い力がはたらいているかのようでした。
「命乞いでもしてみせればいいものを、なぜそうしない?」
「ッ!」
熱い一閃が首を襲いました。
思わず手のひらをあてると、破られた皮膚の内側からとくとくと血が流れ出るのがわかりました。
ほんのわずかな量ですが、次から次へと血はあふれ出してきます。
それはまるでアキラの命のありかを見せつけるかのようでした。
「俺はいつでもおまえの命を握りつぶせるぞ」
降伏の誘惑は甘くアキラを手招きしました。どうせ逃げ場がないのなら、どこで終わっても同じことかもしれません。
それでもアキラは狼をにらみつけました。濃くなる闇の中で姿形はほとんど見えなくなっていましたが、熱とにおいが彼の存在を強く伝えていました。
「おまえの言いなりには、ならない……!」
アキラは叫びました。
森の中の小さな世界でふわふわとあてどもなく漂っていたアキラの命は、いまこの瞬間、赤く赤く燃え盛っていました。
アキラが、意志を持って生きようとしていました。それは今まで一度たりともなかったことでした。
何がそんなにアキラを駆り立てるのか、わかりませんでした。
それでもこの狼に屈することだけは、どうしてもできなかったのです。
「面白い。それなら見せてもらおう、おまえのその”意志”がいつまで保つのか……」
狼はアキラの頬を硬い爪の先で撫でました。その行為は手にした獲物を愛おしみ、じっくりと品定めするかのようでした。
およそ獣とはかけ離れたその仕草に、アキラはじっとりと冷や汗がにじむのを感じました。
もう、後戻りはできませんでした。
……更けてゆく夜の闇が洞窟を黒く塗りつぶし、一頭と一人をどっぷりと飲み込みました。
――*――
獣と人間の初夜(???)を書くというのはなかなかハードでした……;
次回からハートフルパート(※予定)なのでよろしくお願いします。
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