最近わたしは、、

わたしであるわたしというものを
これでいいなと感じるようになった。


でも、
この感覚は新しいものではなく、
ずーーーっとまえにあった。




子供のころ



自分のこと、
すきとかきらいとか

感じることも
かんがえることもないときで



自分の存在があたりまえで



あたりまえというか
疑うことも知らない時で


自分がすべてだったころに
似ている



お父さんもお母さんもお兄ちゃんも
親戚の、近所の、しいては…
通りすがりの
おばちゃんもおじちゃんだって、
ワンちゃんだって猫ちゃんだって
あの山だって、
風も保育園の大きな木も…
ブランコもすべり台も


みんなみんな
わたしのこと
大好きな目線でみてくれている
大切に見守ってくれている


それを感じたから


『ここにいていいんだな』
というゆるがないものが出来ていた。



誰に教わるものではなく


自分の内側にある
見えないけど必ずあるものが
そう、感じていた。





いったいいつから、

好きな自分
嫌いな自分

この自分
あの自分


あの人いい、
あの人みたいは、いや…


そんなことに振り回されるように
なってしまったんだろう。
いつから、

『なりたい自分』を
目指すようになったんだろう






愛されているも
愛されていないも

確認することなく

大事にされていることが
日常でふつうのことで
あたりまえだった



そこにいるだけで、
いいっていうような


考えなくていいもの。



考えなくていいから、
漏れもなく


いつも自由自在



やりたいことがやれなくても
切り替え


やりたくないことがきても
楽しみ
いつの間にかやりたくなかったことも
忘れ


どーってことなかったトキ



いつの間に…

これが幸せ
これが不幸


これは。富
これは貧



どこの物差しで決め始めたのだろう





会いたい人に会いに行くといって
人に会っているようだけど



未開発の自分に出会いにいっている




出逢いたいのは自分
出逢いたいのは自分



もうすでに在る



どこにも行かなくても
すぐそばに在る自分。


自分らしくってのも枠だから
それをも超える自分



内側が大きくなったとき
好きも嫌いも
暗いも明るいも
認めるも認めないも
頑張るも頑張らないも
男も女も
老人も若人も…
二つに分かれている世界が
どっちでもよくなるんだろうな




いま、わたしは
好きとか嫌いとか
そんな風に自分を見ていなくて
そんな風に自分を感じていなくて
『なりたい自分』もなくて



これでいいんだなと
肚のそこから吹き出ている
感じ



クルモノヲ
オコッテクルモノヲ
ヨロコンデイル


『ココニイテイインダナ』