1年生の頃からB1チームの主軸として活躍していた男は、当時スポーツ推薦以外がトップチームに上がることが難しかった中で、その可能性を大いに秘めた実力の持ち主だった。
しかし2年生の冬、来季の新チーム始動に向けてアピールしなければならない大事な時にその出来事は起きた。。。
しかもそれは1度だけではなかった。
進路を決める際、プロを目指していた村石は「小形(聡司)さんと山田(和輝)さんの存在が大きい。」と尊敬する高校(桐蔭学園高校)の先輩がいる中央大学を選んだ。
しかし、将来のことも考え、「3、4年生の時に活躍しなきゃ無理。J1じゃなければプロは諦める。」とある程度その線引きは決めていた。
ただ、その目指す夢に迷いはなかった。
1、2年生でB1チームで活躍していた村石は、就活のことを考えると次の年が勝負であることは十分に承知していた。
新チームでのレギュラー争いに向けて、人一倍強い思いで取り組んでいたその矢先、彼を悲劇が襲った。
『右膝前十字靭帯断裂、半月板損傷』
手術を受けざるを得ない状態だった。
「怪我には意味があるってよく言うけど、俺はそうは思わない。それは振り返ってみて自分で後で付けるもの。」と話すが、サッカーと離れてみて気付いたこともあった。
「どこかBチームでの活躍に満足している自分がいて、チャンスを活かしてやるっていう気持ちが足りてなかったなと思う。」と振り返る。
4年生の5月、様々な人のサポートのおかげもあり、待望の復帰を果たす。
「自分のサッカーとしっかり向き合って、暴れてやろうと思った。多くの人に自分の気持ちを表現したかった。」
約1年というブランクはあったが、サッカーを心の底から楽しんでいた。
しかし、復帰して2ヶ月も経たないある日、サッカーの神様は再び村石を苦しめた。
『左膝前十字靭帯断裂』
逆膝だ。
現役中の復帰は絶望的だった。
「涙も言葉も出なかった。何故また俺なんだと思った。」
突然の引退宣告を受け入れることはもちろん難しかった。
悔しい、親にサッカーしている姿を見せられない、遊んでしまおうか、いや頑張っている仲間がいる、、、色々なことを考えた。
答えは出なかった。
サッカー部を辞めてしまおうかとも考えたと話す。
モチベーションも何も無いまま手術を受けた3日後、部員から動画が送られてきた。
それは今まで一緒に闘ってきた仲間達からのムービーだった。
また、退院祝いとして4年生の仲間達が食事会を開いてくれた。
「仲間って素晴らしいと思った。俺の戻る場所はここなんだと再認識できた。」と、この仲間と共に中央大学サッカー部に何かを残したいと考えるようになった。
そして村石は「自分の中でもそれは考えていた。それに新井さん(Bチーム監督)にも提案してもらった。」と話すように、自身のリハビリをしながらも、4年生の仲間が多く所属するBチームのアシスタントコーチに就任した。
「勝ちたい。勝つ為の力になりたい。」と誰も挑んだことのない立場に挑戦した。
しかし、それは簡単なものではなかった。
「伝えたいことが多いけど、どう言葉をかけたらいいのか。後輩達にどう寄り添えばいいのか。」と最初の頃は苦戦し、試行錯誤を繰り返した。
徐々に彼なりのコーチ像を作り上げ、監督と選手のパイプ役として存分にその力を発揮した。
2度の大怪我、2度の手術、突然の引退宣告、中大初のアシスタントコーチ。
彼しかしていない経験から得たものは、彼しか伝えることは出来ない。
「いきなりサッカーが上手くなることはあり得ないが、いきなりサッカーが出来なくなることはあり得る。だからこそ『今』を大切にしてほしい。」と自身がサッカーをしたくても出来ない悔しさを抑えながら語ってくれた。
「サッカー選手はサッカーをして成長するべき。怪我に意味はない。また、大学は自分で考え成長する場。それが出来ない奴はこのサッカー部には必要ないと思う。」と厳しい口調ながらも、チーム愛を感じさせた。
大学生活の半分を怪我で過ごした村石。
その辛さは私達の想像を遥かに超えるだろう。
しかし彼はそれを乗り越え、ひと回りもふた回りも強くなってグランドに戻ってきた。
そんな姿を見て刺激を受けなかった仲間は誰1人いない。
次のステージでもこの経験を糧に飛躍することを私達は期待する。
村石 大樹(むらいし ひろき)
MF4年 経済学部
1995年4月24日
175cm/67kg
田奈SC→東急Sレイエス→桐蔭学園高校