「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 の 「なぜ?」 | DaIARY of A MADMAN

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毎日、ROCKを聴きながらプロレスと格闘技のことばかり考えています。


最初に、素晴らしい書籍だということは伝えておきたい。

大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するにふさわしい力作だと思うし、素晴らしい読み物にして、資料的価値も高い。私自身、『GONG格闘技』の連載のときから、楽しく読ませていただいた。

そういう意味で、本来なら手放しで絶賛すべきなのだろうが、首をかしげてしまうことが、実は多々あったことを告白しなければならない。プロレスを愛する者として、あまりにプロレスに対する無理解な書き方と、あえて捻じ曲げているとしか思えない表現があったのは事実だからだ。

『KAMINOGE』4号のグレート小鹿のインタビューも頷ける内容だったが、ちょうどゴン格で、問題の試合(力道山VS木村政彦戦)を報じる回に、松原隆一郎教授の連載で書かれていたことは、とても理に適っており、まったくもって気持ちがスッキリしたことを覚えている。

それはともかく、私がモヤモヤしたのは、例えばこういう記述だ。

木村政彦は力道山戦前、アメリカでプロレス興行に出場しており、まだキャリアが浅いにも関わらずメインを張り、“連戦連勝”していたのだが、「プロレスだから勝敗には何の意味を持たない」という書き方をしている。

増田さんの人間性云々を論じるつもりはないので誤解して欲しくないのだが、「この人は時代性というものを理解して書いているのか?」と不審に思った。

太平洋戦争が終結して、わずか数年という時期に、いかに柔道の実績が素晴らしいものであったとしても、日本人が全米有数のマーケットでメインを張ることは間違いなく快挙だし、連戦連勝ということも、よほどの実力がなければできないことなのだ。

彼は、「プロレスは最初から勝敗が決まっているのだから、誰に勝とうが、何勝しようが、何の価値もない」と言いたいのだろう。

しかし、試合で勝つことがすべてと言ってもいい柔道などの格闘技と違い、プロレスでは、リングを降りた「バックステージでの闘い」こそが、骨なのだ。

少しでも自分のポジションやギャラを上げるために仲間の足を引っ張る奴、巡業のストレスからか、弱い者にいたずらしたり、いじめたりする奴、リング上でも、結果は決まっていたとしても、そこに至る過程で、よそ者にでかい顔はさせねぇ、とばかりに仕掛けてくる奴、こんな奴らが、当時はうようよいたのだ。

プロモーターも、「こいつは金にならない=ファンから支持を得られない」と判断したら、ポジション=試合順を下げるのが当然の世界。そうでなければ、直接、興行収入に響いてくるからだ。選手も、アメリカのギャラは興行収入のパーセンテージで決まってくるため、ポジションが低ければ、それだけ分配率が下がり、ギャラが減るし、
メインに出る選手に集客力がなければ、やはり収入に響いてくる。

だから、プロモーターに気に入られているだけでメインに起用されたり、実力がなかったり、集客力がなかったりした場合は、リング上でも、バックステージでも制裁されることが日常茶飯事だった。

そんな環境下で、コンスタントにメインに登場し、「勝ち星」を得られるのは、よほどプロモーターから信用されているか、相当の「実力」がなければ無理。いわば、ほんの一握りのスターのみに許される特権だったと言える。

そういうことを少しでも理解(いや分からなくても、勉強)すれば、まだプロレスラー転向数年で「全米を代表するマットでメインを張り」、「連戦連勝」するということが、どれだけ凄いことか分かろうというもの。間違っても、「プロレスでの勝ち負けは何の意味もなさない」なんて言えないはずだ。

そんなことはないとは思うが、「プロレスを貶める」ために、分かっていて、わざとそういう記述をしたのなら、なおさらがっかりである。

そもそも、柔道の世界で木村政彦の名誉が傷付けられたままなのは、力道山戦の敗北(増田さんの言う「騙まし討ち」)だけが原因ではないはずだ。

私は柔道の歴史には疎いので、迂闊なことは言えないが、奥さんの治療費を稼ぐという名目があったにせよ、プロ柔道に参加したり、「金のために試合をする」ことが多かったと聞く。

だから純粋な人の多い柔道界に疎まれた向きも少なからずあるのではないか。要するに、「確かに強いけど、金に・・・」(以下、自粛)

私自身は木村政彦という不世出の柔道家を貶めるつもりはない。

本書で紹介されているように、間違いなく「柔道史上最強」だったと思うし、エリオ・グレイシーを破った試合がなければ、UFCも存在していなかっただろう。それだけに、柔道側(というか、増田さんの)視点だけで、プロレスに誤った認識が植えつけられてしまうのは、残念としか言いようがない。

決して本人の望んだとおりではなかったかもしれないが、「金を稼ぐ手段」としてプロレスは木村政彦を傷付けるばかりではなかったはずだ。むしろ、木村政彦の晩年が寂しいものだったのは、柔道界が、自分たちの「英雄」に冷たかったからではないのだろうか。

そう考えたら、力道山やプロレスのことを必要以上に“逆恨み”するのは、それこそ、「道」に反することだと思うのだが、どうだろう。