こんにちは。

 

健やか美人流ダイエットコーチの中原由美です。

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ハロウィンを過ぎると、街中はいつの間にかクリスマス仕様になり、

 

今年の暖冬の影響で、一向にクリスマスモードにならなかったけれど、

 

ここ最近の寒さと、お迎えの夕方に一瞬香りを嗅いだ冬(雪)の匂いに、

 

クリスマスを思う。

 

 

実は、私の実母は、2008年に他界している。

 

今年のクリスマスで11年。

 

 

母は、いろいろな意味で、私に大きな影響を与えてくれた人。

 

 

妊娠した時、初めての出産をしたとき、

 

ああ、お母さんが生きていたら、どんなふうに言ったかな。

 

どんな顔したかな。

 

 

そんなことを思った。

 

 

毎年、クリスマスシーズンになると、

なんとなく、そわそわ、

もやもや。ドギマギ。

 

ふと、母の最期を思い出し、

 

ドキドキとしたり、眠れなくなったり、

 

最初の数年はそんなことの繰り返しだったな。

 

 

たのしくて、ウキウキした町の様子とは裏腹に、

 

私には、喪中な色、黒、がイメージに強く残るクリスマス。なのです。

 

 

母は、20代の頃から、「多血症」という血を多く作りすぎてしまう血液の病気だった。

 

らしい。

 

 

らしいっていうのは、自分のことをほとんど話さない人だったから、

 

病気が変化して、苦しくなってから、ポツリポツリと聞いた話なので、

 

私も、詳しいことは聞けず仕舞い。

 

たぶん、詳しいことは、父も知らないのではないかと思う。

 

 

母の病状が明らかに変わったのは、

 

他界する4〜5年前くらいかただったのだと、今になって思う。

 

私が、大学生になり、少しした頃。

 

それまでも、私は長生きできないからね!多分50代でポックリ逝くよ!

 

なんてことを明るく元気に言い放つ母だった。

 

あまりにあっけらかんというので、

 

それを家族でさえ、にわかに信じたりできなかった。

 

 

今になって思えば、あれは、母の本音だったのかもしれない。

 

 

病状が変わった頃から、明らかに激やせしていった母。

 

すこし歩くと息切れし、めまいがするといっては立ち止まり、

 

あきらかに普通じゃない様子。

 

 

わたしが、母の病気を知らされたのは、

 

母が他界するほんの6ヶ月前だった。

 

 

多血症という病気だったのだけど、

 

それが、どういうわけだか、骨髄線維症っていう病気になってしまったらしい。。。と。

 

らしい。

 

そう、この急変は、お医者さんにも、まったく予想できなかったものであったらしく、

 

骨髄線維症自体も、症例がそんなに多い病気ではないらしく、

 

 

らしい、らしい、の連続で、

 

骨髄線維症自体は、進行の遅い病気として知られていたのだけれど、

 

母の病状は、予想をはるかに上回る速度で悪化していた。

 

他界するほんの2ヶ月前、

 

大学院の修士論文の執筆真っ最中、

 

ちょっと話があるからこい!と、温泉宿に湯治に来ているという母から連絡があった。

 

なんだか、とっても深刻そうだったので、仕方なく

 

地元(新潟)の温泉まで出かけ、わけを聞くと、

 

 

入院するから、書類にサインして、誰にも言わずに入院の支度を手伝えと言う。

 

 

検査のための入院だというから、そうか、そうか、体力的にも厳しいし、

 

仕方がないか。。。。

 

 

そんな話をして、若干の罪悪感と、戸惑いを残したまま、

 

私は書類にサインした。

 

 

その後も、私は、東京に戻り、きーきーひーひー言いながら修士論文を書いていた。

 

 

母からの連絡は、少なく、1〜2週間に1度、なんでもなさそうなことでメールをくれる

くらいだった。

 

でも、この時、本当は死にそうに苦しく、どうしていいかわからないような発作が、

 

続いていたのだと思う。

 

 

私がサインして、2ヶ月も経たない12月24日の真夜中、

 

突然父から電話とメールがあり、私が到着した時、

 

母はもう虫の息だった。

 

 

12月25日の夜、

 

本当に苦しそうな発作を何度か乗り切った後、

 

もう、次の発作が来たら、もう、無理。

 

 

そう言った母の最期の言葉が、今も、耳の奥に聞こえそうだ。

 

 

 

母は、その言葉通り、その次の発作を最期に、息を引き取った。

 

 

死因は、「呼吸不全」とされ、その原因も、苦しかった原因も、

 

なにもかも、なんにもわからないまま、

 

彼女は逝ってしまった。

 

 

 

それからの数年は、罪悪感といろんなぐるぐるした感情とで、

 

母のことを語る気力がなかった。

 

心のどこかで、いつも、母の他界が、重く、静かに、ズシンと、

 

心を押しつぶしていた。

 

 

 

そのあと、奇跡的に、一度だけ母に合わせることのできた彼(現夫)と

 

結婚し、出産し、自分たちの家を持ち、

 

昨年のクリスマスのこと、

 

ツリーを買おう!

ツリーを飾って、クリスマスを幸せに過ごそう!!

楽しもう!!

 

 

そんな提案をすることができた。

 

 

 

 

ずっとね、私のせいだと、思っていた。

 

 

あのとき、書類に、サインさえしなければ、

 

母は、今も、生きていたかもしれないって。

 

 

でもね、そんなのは、おとぎ話。

 

もしも、あの時。は、絶対に、もう、やってこない。

 

 

体の仕組みを学び直して、

 

気がついた。

 

 

母の病気は、なるべくしてなったもので、

 

結果にすぎなかった。

 

今なら、症状が変わる前に、大して不調がない時期に、

 

健康度を回復させてあげられただろうにと、

 

ちょっとした痛みを感じることはある。

 

だけど、この時の衝撃がなかったら、

 

きっと今、これだけ生きることや健康であることに、執着していなかったかも。

 

きっと、あの経験があったからこそ、

 

いつまでも、母には元気でいてほしい!って思うからこそ、

 

出産を経験した「ママ」にこそ、正しく、健康になるダイエット法を届けたいって

 

そう思うんだろうなって思う。

 

 

 

骨髄まで繊維化してしまったということは、

身体中の炎症反応が、もう、骨髄を犠牲にするしか生きる道がなかったってことだと思う。

 

多血症になったってことは、

血を多く作らないと生きていけないと体が判断したから。

 

 

血液(赤血球)も、骨髄も、脳も、心臓も、

その主なエネルギー源は、「糖」だ。

 

糖が、正常に代謝できず、

体が通常運転ができなくなると、飢餓状態でも働く代謝回路が回る。

糖は、どんどんブロックされ、代わりに燃やされるのは、

脂肪と、たんぱく質だ。

でもこれは、

家の中に、薪を取ってきて燃やしているのが「糖の代謝」だとしたら、

家の中の「壁や柱を引っぺがして暖をとってる」のが「脂肪やたんぱく質」を燃やして

エネルギーを賄っている状態だ。

これは、どう頑張っても、健康じゃない。

癌の末期患者がガリガリに痩せてしまうのは、

母が、最期にガリガリに痩せてしまっていたのは、

この病的な代謝に、完全に切り替わってしまっていたからだ。

 

苦しいのも、糖をエネルギー源にする赤血球という細胞が、糖を代謝できず

病的な状態になってしまっていたからだ。

 

体の中のゴミもどんどん増える。

エネルギー代謝を乱し、病的な代謝に変えて、体の中であらゆる炎症を起こす

過酸化脂質などが増えすぎていたことだろう。

あらゆる組織に癒着したアルデヒドが、手当たり次第に、組織を次々に傷つけ、

傷ついた組織は繊維化していく、硬くなっていく。

動脈硬化だって起こるし、心臓の筋肉だって、骨髄だって硬く繊維質になっていくだろう。

 

心臓と、脳。最期の砦を守るために、母の体は、骨髄を犠牲にした。

 

これ以上は、長く持たないとわかっていても、

 

最期の一瞬まで、生きる命の火を灯し続ける。

 

それが、人間の命の仕組みだから。

 

 

 

 

命の仕組みを知った時、

 

かなしくて、泣いた。

 

母の最期を思って、泣いた。

 

 

だけど、同時に、自分は、この知識を、

 

子供達や、大切な人のために、使うことができる。

 

それが、幸せでもあるのだと、気づいた。

 

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お母さん、私も、母になったよ。

 

今、ちゃんと、生きてます。

 

健康に過ごすよ。

 

楽しく過ごすよ。

 

幸せに、生きるよ。