吉村作治氏の説では、ピラミッドの建設は農閑期の人々に仕事を与えるための公共事業の側面もあったのだという。

3000年前のエジプトも、ケインズ的な経済学にのっとって国家経営をしていたようだ。

古典主義的経済学では、市場は操作可能なものであり、政府は公共事業を通じてバランスよく市場をコントロールするのが任務であると説く。

しかし、時として政府はその公共事業を「戦争」という手段で実行しようとする。

経済学的観点から言えば、戦争もまた公共事業の一種と言えなくもない。

現在のアメリカ合衆国はまさにそうだ。そして戦前の日本も。

振り返って昭和初期の状況を鑑みるに、未曾有の世界恐慌と荒天による連年の不作、地方で困窮した人が都会に来ても仕事はない。失業率は国を圧迫するまでになっていた。

当時の日本政府はそうした困窮者の受け皿として軍隊を用意した。

この頃から、陸軍の首脳が薩長から出羽庄内、青森や秋田といった出身の者に入れ替わって行ったのは偶然ではない。

公共事業体であるからには仕事をしなければならない。もちろん、軍隊の仕事とは「戦争」だ。

日中戦争も太平洋戦争も、いかに労を費やしても避けることはできず、いずれはなんらかの形で戦争には突入していたのだ。

しかし

戦争は政府がコントロールできるものではい。本来ならば文官がコントロールするのが鉄則だが、そんな事は不可能なのは歴史が証明している。

結局の所、戦争という公共事業を通じて市場をコントロールしようとして、コントロールしきれず破滅に向かったのが1945年の今日だったわけである。

今、日本政府はどうだろう。状況は当時の日本と酷似している。経済危機という点でははるかに厳しいかもしれない。

が、もはや戦争という公共事業は使えない。いや、バカどもがその手段を使いそうなのが怖いが。

願わくば、この苦境を安易な選択に走って道を見誤らない事を願う。

今日は八月十五日。