皆様、いかがお過ごしでしょうか

わたしは元気にやっています

有難いことです、本当に有難いことです

皆様って誰の事なんだろうか、

 

できることをするっていうことで
世の中みんなが一丸となっている

こんな状況だからこそ
世界は一つになろうとしていて
逆に、こんな状況になるまでそうなれない
私含め
そういうものなんだな、人って

と勝手に切なくなったり

なんだろう
こういう時、どうしたらいいのだろう
困ったら悩むのではなく、考えろとよく言うけれど
どうしたらいいか考えるってどういうレベルの話なんだろう
どうすればいいか考えることすらできない
そういう次元にいない
私のない頭だとどうすればいいか、なんて考えても考えても出てこない

誰かを元気にしたいっておこがましいことをただひたすら考えているけど
手に負えない
きっとみんなそうなんだと思う
わけわからなくなっている

そういう時は、耐える
ひたすらに


そこに人間の底力があると信じるし、信じたい
生きているからこそ
我慢することができる
生活を取り戻すつもりだからこそ
一度止まることができるし、変化することができる
この事態が終息することを期待できる、努力できる

コロナとは少し関係ないのだけど
最近、というか少し前、
専門学校の恩師が亡くなった、そのことについて後悔していることがある

 

昨年の9月

劇団の本公演を上演した際、恩師が観に来てくださった。

面会の時、「がんばってるじゃないか、ただ、もっともっとだ、表現とは何か、今なぜこれを表現するのか、常に世の中を見つめていくことだ」

「僕はもうすぐ死ぬだろう、僕はそういう僕が今何を感じているか、冷静に観察しているところなんだ」

「死ぬことは自然の摂理なんだ、あぁそうか、というくらいのことなんだ」

「まぁ、今度お茶でもしよう」

そう先生は仰っていた。

とにかく生命力が強い先生で、私はその言葉がちょっと信じられなくて、というか信じたくなくて

そのうち劇団公演が終わって
私は舞台活動を休止し、ばたばたと過ごしていた

落ち着いたらお茶をしよう、春になったらと、思っていた

 

先生と話をしたのはその面会が最後だった

なんか、今まで見てきたたくさんの物語の一つみたいだった

この「先生と話をしたのはその面会が最後だった」っていう一文も、こうして文字に起こすと、何度も読んだ本みたい

後悔もした、その後悔も見てきた物語みたい、嘘みたいだった

こんなに知っているはずの感情で、ありふれたことなのに、なんで会っておかないんだ、知っていたはずのことなのに

後悔ってこういう気持ちなんだなと知った、涙が出て止まらなかった

多分、私はこの時初めて本当の、取返しのつかない後悔をした

 

先生と懇意にされていた先輩に連絡して、いうならばありふれた会話をした

でも、心の中は今までと全然違くて、

今思うと、それは、先生がよく言っていた「会話」と「対話」の違いってやつなのかもしれない

先輩も私もよく一緒にいたころとは状況が大きく変わっていた

「落ち着いたら一緒にお茶しましょう、絶対に」

わたしはそう言って電話を切った

 

で、今、コロナで、誰にも会えない

会いたいときに会いたい人に直接会って話すことができないことはこんなに辛いんだと日々思う

これも、知っていたこと

芝居は儚いもの、これも知っていたこと

「わたしたちは今何ができるのか、考える日々が続く」

劇団の動画でも話したこの言葉、文字にすると簡単で、心に刺すとすごく痛い

 

不謹慎てなんだろう、

みんなで一つになる、こういう時だからこそ、表現者として、とか、なんか、言葉がもう、怖い

わたしに人を喜ばせるなんてできるんだろうか、おこがましい、身の程知らずもいいとこだよなと本気で思うけど

でも

考えて考えて結果なんにも見つけられないかもしれないけど

考え続けることをやめちゃいけない

って、先生は言ってたんだと思うから

失敗しないようにありきたりなことやるより

自分が今どうしたいか、とか、相手にどうあってほしいか、とか

そういうことを見つめて、堂々と黙っていてもいいと思う、し、くっだらないことしてもいいと思う

 

つくづく馬鹿なんだと思う、わたしは

これだけ書いてやっと、あぁ、私そう思ってたんだなって思った

馬鹿でいいや。

独り言。

どこかでこの文章を読んだ人がなんかしら思うはずで、確かに独り言は自分だけで留めとけとは思うけど

でも誰かしらに読んでほしかったから書いてて、

生きているからなんだと思った