早雲庵宗瑞 (伊勢新九郎盛時・北条早雲) | 獨と玖人の舌先三寸

早雲庵宗瑞 (伊勢新九郎盛時・北条早雲)

室町時代中・後期の武将。のちに戦国大名となった後北条氏の祖。
戦国大名の嚆矢(こうし)。
本当の名は、伊勢新九郎盛時(いせ しんくろう もりとき)。号(法名)は早雲庵宗瑞(そううんあん そうずい)。戒名は早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門。
※北条早雲という名は、北条家を遡るために後世に作られた記号のようなもの。
※桓武平氏維衡流を称する備中伊勢氏。備中荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)。
※“下剋上の嚆矢”ではなくなった。元々、名門伊勢氏の出生とされていたのに、江戸時代中期頃に“太閤記”などの読み物と、低い者が実力で身を興す下剋上の民衆願望によって形成され、明治時代に素浪人と定着、通説となってしまった。

生年康正2(1456)年。
没年永正16(1519)年。
父 伊勢盛定は、幕府政所執事 伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆。
母は、京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘。
※備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣も出ている。
文明15(1483)年、9代 義尚の申次衆。
長享元(1487)年、奉公衆。
奉公衆 小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚、嫡男 氏綱誕生。
駿河国家督争い鎮圧。
長享3(1489)年、今川氏親当主就任。新九郎は今川氏家臣となり、伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられた。駿河守護代の地位にあったとも考えられている。

明応2(1493)年、幕府より堀越公方追討令。伊豆討入り。
築城年、早雲公の営繕年とも明らかではないが、この頃より居城として使用している。
※小田原の役で激しい攻防戦が行われている。「籠城」の異称とまでなった城。
明応3(1494)年の史料から“早雲庵宋瑞”という法名が表れる。
扇谷上杉氏より援軍の依頼を受け、関東進出。
明応4(1495)年、元 扇谷上杉氏家臣 大森藤頼が山内上杉氏へ裏切ったため、相模国小田原へ進軍。小田原城を奪う。
※現在、明応4(1495)年説は否定されている。明応10年には領有している記録がある。
※早雲公は終生、伊豆韮山城を居城とした。
明応7(1497)年、5年がかりで伊豆平定。東国戦国期の幕開けと位置付けられている。
※上野、武蔵、安房、甲斐、遠江、三河、八方と合戦を行っている。
※目立たないが、敗戦も多い。将軍家との関係も薄くなった。

永正13(1516)年、相模平定。永正6(1509)年頃より相模進出に集中している。
※領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名。戦国時代の最初。よって最初の戦国大名とも呼ばれる。
※伊豆一国を支配しながら守護大名には任じられていない。官位もない。
※“早雲寺殿廿一箇条”は分国法の祖形となったらしい。
※検地を行った最初であり最古の戦国大名。
永正15(1518)年、家督を嫡男 氏綱に譲る。

◎おまけ――
大永3(1523)年、姓を伊勢から北条に改める。また、この頃に居城を伊豆韮山城から、相模小田原城に移したとされる。
氏綱は武蔵、下総へ領国拡大。
主従関係にあった駿河国 今川氏親との駿相同盟に基づき、甲斐国 武田信虎と甲相国境で争う。
天文5(1536)年、氏綱の助力もあって花倉の乱を制した今川義元が家督を継承する。さらに信虎の娘 定恵院を娶って甲駿同盟を成立させた。氏綱はこれに激怒して相駿同盟を破綻し、今川氏とも抗争する(河東の乱)。北条家独立。
※最大時は240万石を領した。

伊勢平氏の北条氏は、鎌倉幕府執権を務めた北条氏の後裔ではないことから、研究者が両者を区別するため、後北条氏と呼ぶようにした。また、居城のあった小田原の地名から、小田原北条氏とも呼ばれる。
北条の姓を選んだのは、かつて鎌倉時代に相模国を領有した執権北条氏と同族であることを顕示し、相模支配の正統性を主張するためだったとされる。現在は一切の合致史料がなく疑われているが、桓武平氏の流れを称している。
鎌倉執権の北条家はそのままか、区別して使われる時は北条得宗家、執権北条氏、鎌倉北条氏などと呼ばれる。



mixiアルバムの人物説明はこんなカンジですかねぇ(=゜ω゜)ノシ
菅公のような年表形式と。
北条家、早雲公を紹介するネタに当分到達できそうにないのでwwww こっちに書いちゃいましたf(*^∪゜)テヘペロ!