花巻の高村光太郎記念会から寄贈した葉書のコピーを送っていただきました。

父がこれまで肌身離さず持っていた宝物です。


父が武蔵野市の飛行機工場中島飛行機工場で働いていた頃、東京の空襲で光太郎のアトリエが

無事かどうか?武蔵野から自転車で、光太郎の様子を観に行ったときに、一度目は無事で、

光太郎から直接手渡して貰った「道程」のサイン入り文庫本。その時に握手してくれた大きくて暖かい手を今でも忘れないと、父はいつも口にしていました。東京大空襲の後に様子を見に行った時には、アトリエは焼け、焼けた本の灰が塊となっていたと聞きました。光太郎は後に持って逃げたのはノミ一本だけだったと書いています。原稿も彫刻もすべて灰となったのでした。

そして、終戦後、父が山形に帰り、花巻の光太郎に出した手紙の返信が上の写真の葉書です。


渡辺の昔の字は私の実家は「渡邉」なのですが、「渡邊」になっています。一般的な渡邊だと勘違いしたのでしょう。


父は高村光太郎の影響で宮沢賢治の作品も熟読していました。




寄贈の様子が岩手の地元の新聞に載りました。

この記事も高村光太郎記念会が送ってきて下さいました。


毎年、年賀葉書に光太郎の詩を一編づづガリ版刷りの文字で書いていたほど、

光太郎に心酔していた父の思いが伝わればと思います。