無防備

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2017年、あけましておめでとうございます。

 

年末にまた一つ歳を重ねて、

身体の年齢だけでいうなら

もう十二分に大人なのですが、

 

自分を客観的に見てみれば

歳の分だけ、

ただ鎧を重ねただけの自分が目立って見えて

 

この鎧を外さなくては

一体そこに何が残っているのか知れず、

あるいは空っぽなのかもわかりませんが

 

今年は無防備に

自分をさらすように世の中と関わってみようと思います。

 

これ決心するの

長い時間と覚悟が必要だったんだ、笑。

 

Waca

言葉

言葉ってなんだろうね。
言葉ってなんだ?

言葉が、その目に見える文字が言わんとすること全てを表しているのか。
本当にそうか?

文章読むときの受け取り方は
誰が書いたかの前提ありきで読むんだろう。

だったらもう、言葉の持つ意味なんてないじゃない。
もう、伝える術もない。

April

4月はガツンとどうしていいかわからない状況になった。
寝ても覚めても、普通にしてても常に自分の動悸が高鳴っているのが聞こえていた。

本当に恐くて、不安で、どうしていいかわからないときは
言葉通り歯を食いしばって声を殺して、自分でたつしかない。
誰かに相談?とんでもない。必死なのだ。
どんな思いひとつも洩らしたら
必死に保っている自分のバランスが崩れてしまう。

ただ私のどうしていいかわからない状況に関係なく、周りにはなにも変わらない日常が流れていたことは少し癒された。

ちゃんと向き合えている、と思う。


私が思うに、私の人生の主役は私で。
ということはどんな出来事があろうとも、
それは私のために起こる出来事であるはずだ。
他の人に向けてであるはずがない。

だからなにが起きようとも、糧にして成長しようと思う。
そう覚悟して生きたいと思う。



捨て犬のお話

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今年のはじめ、九十九里で一匹の犬に会いました。

民家の前に大人しく寝そべっていたその犬は1週間にも同じ場所にいました。

少し立ち止まり声を掛けてみたけれど、
遠巻きにこちらを見てるだけだったので一度は「じゃあね」とその場を立ち去りました。

帰りにもそこにいたので、しゃがんでしばらく話かけていたら、
少し、また少しと距離を詰めてこちらに近づいてきました。

私がじっと動かず待っていると1m位のところまで近づき、ふせて私を見上げます。

話しかけながら、手を伸ばして撫でようとしたらビクン、として身を引きました。
怖がりなんだと思い、見ているだけにしました。

しばらく時間がたって、
帰ろうと思い別れを言ってその場を離れたのですが、振り返ったらその犬が私の後をついて歩いてくる。相変わらず1mの距離を保って、私が止まると相手も止まり、進むとついて来る。

人様の犬だと思っていたので慌てて戻るように言ったのですが、帰る気配がなく仕方がないのでもとの場所まで戻ってみたのですが一向にそこに落ち着く気配がないのです。

困り果てて、ご近所に
「私の後をついて来るんですが、どちらのお宅の犬かご存知ですか?」
と聞くと、
「ああ、居るわよね。捨て犬なのよ~。前は2匹居たけど今は一匹よね。
まあ、エサはあげないほうがいいわね。」
と。

2匹いたって、じゃあもう一匹はどこ行っちゃったの?!
今までの犬と私の和やかな時間は急転直下です。


その時の私の心模様。
まさにどうしよう、です。

捨て犬だと知った今、私どうしよう。
まず、帰る家がないこの子をどうしよう。
恐らく自力では食べ物を得られない。どうしよう。
家で飼えるか?いや、我が家は今飼っている2匹で手一杯だ。。
私、飼ってあげられなくてどうしよう。
じゃあ置いていく?
もしこのままついて来て、車の後まで追いかけて、事故にあったらどうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。

本当にこの「どうしよう」って言葉通りでなんです。
その時、そこには、その犬と私しか居なくて、
ということは私が「どうするか」次第で事態は180度変わる。
そしてその選択を自分でしなくちゃいけない。



あなたがこの立場だったなら、どうしますか?

帰る場所のない犬が後をついてくるんです。
手を伸ばすと怖がるような臆病な犬なのに、見知らぬ私の後をついてくる。


私が取った行動は。。
角まで来た時とっさに振り返って、その犬に向かって走るように1歩を踏み出してみせた。追いかけるふりをした。
1m以上寄らないその犬が、私が勢いよく一歩踏み出すことで勢いよく逃げ出すと知っていたからだと思う。
それで私は即座に逆方向に向かって、全力で走ってその犬から逃げてきた。


元の場所にもどって欲しかった。
1週間前に同じ場所にいたってことは、
捨て犬とは知っていても近所の人が保健所には通報してないってことだ。
大人しい性格と現状の危害性のなさから多分黙認されてるんだ。
で、見た目にひどく痩せすぎていないということは
もしかしたら、私と同じように出会った人たちから、あるいは特定の人たちから食べさせてもらえてるのかもしれない。連れて帰れないのなら、そこにいるのがいいのではないかと思えて。


車に逃げ入って、振り返って見渡してついて来てないことを確認して、それでもしばらくドキドキして隠れるようにしていて。その間ずっと元の場所に帰ることを願っていたんだけど、時間がたったら、今度は今、自分がしたこと、その犬が置かれている現実がいきなり実感されて、今まで味わったことのない、なんとも言えないこみ上がってくる感情に頭覆って、丸まった。


何てことをしちゃったんだろう。
なんて酷いことしたんだろう。
どうしてあんなことが出来たんだろう。


あんなひどいことを自分がしちゃうんだって事のショックと、
された犬の気持ちと
これからの犬の未来やらを思ったり
つい今しがた海でおじいちゃんと孫と犬の幸せそうな図を思い出しては
比較しては、泣いた。




それから、いつまでたっても全く帰る気持ちになれなくて
腫れた目を休めながらぼーっとしてたら気持ちがだいぶ落ち着いてきた。
すると本当に出来ることはないか?という疑問が大きくなった。
どうしたら救えるか。

犬のために小さくて安い借家を借りるとか。いや、安いっていってもそんな余裕はないし、私も毎日通うのは無理だ。

飼える人いるだろうか?中型の柴犬を飼える環境のある人思いつかない。

動物保護団体はどうだろう。
ようやく見つけた連絡先に連絡してみるが、
「まず保健所に連絡して引き取ってもらってください。飼い主が探しているかもしれないでしょ。
里親は誰かに飼われていることが前提です。あなたが飼っているんですか?」
という返事。

でも、ご近所さんのいうとおり多分捨て犬なんだと思う。
飼えない私がいうのもおかしいかもしれないけれど、保健所は避けたい。
これだけ大人しい犬だから、看板犬として九十九里市役所等で皆で育てることはできないか。
でも時間はとっくに夜の7時にもなっていて相談できる人は帰っている。

考える。他にはないか。
そうだ、静岡の実家!!
最後の頼みの綱。願う気持ちで電話かける。

母の声を聞いて、説明を始めたらまた泣けてきて静岡まで連れてくから、飼えないかな?
と聞いたときの母、困ってた。断言せずにお父さんに聞いてみるって電話切ったけど、
無理なんだろうなって思ったら、しばらくして父から
「申し訳ないけど、今は飼えないよ。逆に家に来たらもっと可哀想だよ。」というメールがきた。

実家の状況を考えてみれば、無理なのもわかる。
私も飼えないんだから。両親や他人が飼えないのも理解できる。



この頃になると、落ち着いて現実が見える。
結局私に出来るのは、食事を与えることだけなんだ。。

でも、与えていいのか、悪いのかまた悩む。
私が飼えない以上、もし何かあって被害を受けるのはご近所さんで。
そのご近所さんにはエサはあげない方がいいとおっしゃっている。

どうするべきなんだろう。
ちゃんと考えて、自分で答えを出さなくちゃいけない。

飼えない私が与えて帰ったらそれは無責任なのか。
与えないで帰ったら責任感ある人なのか。

私はすごく考えた結果、エサをあげることにした。
コンビニでおにぎりや肉まんやら買い込んで、さっきの場所に車で戻った。

だけど、、、犬はもうそこにいなかった。
胸が騒いで焦る。ご飯を食べられるように道の脇に置いて、
車のライトで辺りを明るくして探しまわる。
もうどこにもいなくてあきらめかけたころ、後ろから車が来たので発車させた。


走らせながら、追いかけたことを思いだす。

あの犬は本当はなかなか人に近づく犬じゃないんだと思う。
手を伸ばすとビクっとひくということは、野良犬になって虐げられた経験があるんだと思う。
それなのに、ゆっくりゆっくり、確かめながら近づいて来てくれたということは多分自分を信じてみようと思ってくれたんだと思う。
心を許したからついてきたんだと思う。
自分はその犬にとってのほんの微かな希望だったかもしれないのに、私は受けた信頼に対して答えるどころか、一番されたくないことをしたんだ。
追いかけるふりなんて、そんな必要はなかったのに。
私は、結局自分が困るからそうしたんだ。そしてその結果、居られたところからもいなくなったかもしれない。


自分は無力だなとしみじみ思う。
さっきから結局誰かをあてにしてばかりで私の力で出来ることが何一つなかった。
犬を飼う状況も作れないし、
信頼にこたえる心の器すらも持ち合わせていない。

変わりたい、と心底思う。



~お知らせ~

今回の東北地方太平洋沖地震により被災し
関東に非難されている皆様に無料で出張マッサージをさせていただきます。

非難所では寒さや狭さで心労や疲労を
感じている方々がたくさんいらっしゃると思います。

身体と心は密接に関係しています。
心の疲労は身体にも現れるし、
心が元気でも身体に疲労がたまっていると、
思うように動けないことがあります。
少しでもそういったところのケアのお役に立てたらと考えております。
もし、このブログをご覧になった方のお近くにそういったケアや癒し、気分転換が必要なかたがいらっしゃったり、そういう方々のいる避難所をご存知な方は是非このことをお伝え頂いたり、ご一報頂けたらと思います。


ご連絡頂ければこちらからお伺い致します。
避難所などであれば、多くの方のお役にたてればと思います。
またプライベートな時間が必要なかたもいらっしゃると思いますので
その場合はサロンにお越し頂くこともできます。

今後のお仕事の役に立てたいとお考えの方には
JAAのアロマコーディネーター資格取得などのお手伝いもさせていただきます。

午前8時~午後1時であれば、月・火・水・金曜に動けます。
それ以外の時間、曜日も状況によっては対応させて頂きますまで
ご相談ください。

微力ではありますが。
不十分なのかもしれませんが。

自分に出来ることをしながら、
どういう形でお役に立てるのか、
どうしたらより良い形で力になれるのか
考え続けていけたらと思っています。

取り急ぎ、お知らせまで。。

              wacaでした。







お誕生日パーティー

テーマ:
先日、知り合いのお誕生日パーティーにお誘い頂き、
そこで素敵な女性にお会いしました。

『地球料理人』

という肩書きをもつその女性は、
お料理をするのが大好きで型にとらわれない
創作料理をなさるかたです。

目がとても大きく、雰囲気のある女性。
そしてたぶん度胸のある女性です。
誤解のないように付け加えておくと、
いかつい、とかそうゆうことではなく
落ち着いているというか。。

お料理ができるヒトって、度胸のいい人ではないかと
思うのです。
自分のように料理が苦手な人は、これ入れていいのかしら?
大丈夫かしら?分量どおりじゃないと。
なんて感じで、おどおどしてるんですよね(笑)。

で、その簡潔で堂々としていて、
しかし人当たりが柔らかいな彼女のお料理は
そのお味も人柄のように、
しつこくなくいくらでもペロリと食べられて
その一つ一つが丁寧なお料理でした。
特に自分は、初めに口にしたサラダにかかった絶妙に美味しいドレッシングにノックアウト。たいていのパーティーってあんまり食べられないから終わるころには飢餓状態になるので、実は今回行く前に少し腹ごしらえをしていった自分。(お酒が飲めないのでね)
それでも食べてきたことなんかすっかり忘れて一通りのお料理を頂き、
いたく感動して帰ってきました。

素晴らしかった。

その料理人の方、関 綾子さん。
今回のようにパーティーのケータリングを受けたり
お料理教室をされたりしていらっしゃいます。
http://yaplog.jp/tikyuuryouri/

あの大きな目に惹きつけられます。
いつかお料理をならってみたいな~ともひそかに思う。

                   wacaでした



出会いって素晴らしい☆

















お誕生日パーティー

テーマ:
Birthday party。どんなイメージされます?

今日ご招待いただいた誕生日パーティー。
ちょっと違うんだなぁ。


なにがって、
お誕生日の当人が企画し
お部屋を確保し
ケータリングでお料理とお酒を用意して
皆をお招きくださったんです。

外国でお勤めになっていたころ、
その国では
「今日は自分の誕生日だから、僕が皆にビールをご馳走するよ。」
という具合だったそうです。

誕生日は自分達の大切な人に
「感謝を伝える日」。

その考え方に感じるものがあって
日本に戻られてからも
毎年、お誕生日に大切な人たちを招いて
「ありがとう」を伝えるためのパーティーを
されています。

なんて素敵な女性なんだろう。
今回はお二人合同のパーティーだったのですが
お二人とも素晴らしいと思ったこと
感動したことに素直で、
即実践する柔軟性と行動力があります。

そしてそんな彼女たちは
人を惹きつけます。
人を惹きつけるから
仕事もチャンスも引き寄せます。

引き寄せの法則。
心からの思いは、どうしても伝わっちゃうんだろうな。。



爪のアカ、煎じて飲みたいです。










反対語

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ある本を読んで、ふと思った。

逃げないということ。

逃げない、って否定文だけど
これを肯定文にすると何だろう。

「立ち向かう」だとずっと思ってた。

自分はいつもなにか大変なことがあったとき、
立ち向かうんだ、逃げないんだ、って思ってきたけれど。。

昨日、唐突にひらめいたみたいにストンっと
自分の中に落ちてきたこと。

逃げないの反対は「受け入れる」じゃないか、って。

逃げると立ち向かうは、対極だけど
どちらも対象を拒絶してるんだよね。

ま、何にしても現状改善すべく、
前向きにがんばるわけだけど、
受け入れ難くても、受け入れてから
前に進むため一歩を歩みだすことと
「負けない」という意識のみで前を向こうとするのでは
立ちむかい方が違うように思う。
その先への進みかたも、行く道も。

対象が自分でも、人でも、モノゴトあっても。

その作業は飛ばしてはならない
とても大切なことだと、ふとそんな風に思った。

                 wacaでした。



しかし。そう思ったのは、なんで昨日だったんだろう。

愚痴

テーマ:
愚痴。

言っている人はその話の中で
一生懸命にその対象になる人について
説明しているつもりなのだろうけれど。。

実はその人自身について、現しているような気がする。

私たちは人の話を聞きながら
その人自身を見ている。


どう扱われたいのかは自分が決めるものだ、
と言っていた人がいた。

一理あると思う。。

どう扱われたいか。

また会いたい、話をしたいと思う人に、
再び会いたいから、

相手にもそう思ってもらえる自分になりたいのだな。


                 wacaでした。





でさ。
愚痴とか批判とかそういうものを除いた部分の話が
本当のその人なんだよね。
その部分に触れたくて会いたいと思うんだよ。


でも。理想は愚痴も含めてその人なんだから
そのまま受け入れられるような
器の大きな人になりたいんだ。
相手が変わらなきゃならない理由はなくて
自分が変わればいいだけの話。