昨日、僕の祖父が他界しました。
89歳でした。

今日は、祖父のことを書きたいと思います。

祖父は戦前の生まれで、戦争中は特攻隊「伏龍」の予科練生でした。
歴史が好きだった子供の頃の僕は、祖父に戦争の話をよくしてもらいました。

爆弾を持って敵に突っ込むために訓練を重ねる。
つまり、国のために死ぬための訓練など、到底理解できなかった僕は、「怖くなかったのか」、「逃げ出したくならなかったのか」などと、事細かく祖父を質問責めにした記憶があります。
その時、祖父は言いました。
「怖くはなかった。それが当たり前だったし、疑いもしなかった」。

そして、もう一言、僕に言ったのです。

「あれが青春だった」と。

ある時、訓練中の事故のことを祖父が話してくれました。

「ある日、訓練で海に入っていると、急にいくら吸っても酸素が入ってこなくなった。当時は物資という物資が何もかも足りなかったから、ボンベもまともなものは少なかったし、だからすぐに故障だって分かった。だけど、それに気がついたところでもう水の中にいて、いくら助けを呼びたくても濁った水の中では誰も気づいてくれなかった。おじいちゃんは、ああ、ここで死ぬのか、と思った。そしてそのまま気を失ったんだよ。目が覚めた時には、周りにたくさんの仲間が心配そうに自分を見ていた。それで助かったんだって思ったんだ」。

そんなことを笑いながら話す祖父。その隣で父はこんなことを言う。

「そこで死んでたら、正明は生まれてなかったんだなー」。

おい、それなら親父、あんたも生まれてねーだろ(笑)



やがて戦争が終わり、某大手ゼネコンへ就職した祖父は、中学しか出ていなかったにも関わらず(うろ覚えですが)、必死で勉強し一級建築士の資格を取る。

そんな祖父のことを、祖母は誇らしげに語っていました。

「おじいちゃんは本当に勤勉で、真面目な人。若い頃は、朝早くから仕事をして、帰ってきたら夜中までずっと勉強をしていたの。昔からお酒は好きだけれど、飲みすぎて仕事を休むなんてことは絶対になかったし、終電を過ぎて飲むようなこともない。高価なものを欲しがることも、見栄を張ることもない」

そう話す祖母もやはり祖父に似て、慎ましく、贅沢を望まない人なのですが。

孫の僕が言うのもおかしな話ですが、祖父はたぶん一般的な家庭よりもずっと良い給料をもらっていたと思う。
大手企業で役員になった人だし、アパートを建てて賃貸経営もしていた。
それなのに自分の家はちっとも大きくないし、車も高級車などを購入したことは一度もなく、どちらかというとリーズナブルな部類に入るであろう車に乗っていた。

じゃあ、いったい何に金を使うのか。

「子供のため、孫のためなら、いくらでもお金を使う」。

そういう祖父と祖母なのです。


最後にもうひとつだけ書きます。
僕が産まれた時、祖父が言った言葉です。
もちろん僕自身はそれを覚えてるわけもないのですが、父も母も祖母も、皆が皆その言葉を覚えていて、僕は子供の頃からその話を聞かされていました。


「コイツは大物になる」と。


おじいちゃん、今のオレはまだまだ大物だなんて程遠くて、おじいちゃんが注いでくれた期待や思い、優しさに「お返し」ができるようなことを成せてない。

だけど、いつもおじいちゃんが言ってた「精一杯頑張りなさい」って言葉だけはいつも胸に持ち続けてやってきたよ。

そして、これからも精一杯頑張って、いつか大物になるからさ!
だから、ずっと見てて欲しい。

いつか自分の孫に、おじいちゃんと同じことが言えるような人間になるからさ!

そしてこの歌が、おじいちゃんとおばあちゃんが出演してくれたこの歌が、ちゃんと天国まで届いて、オレとおじいちゃんの約束になることを祈っています。



ただ、なんでだろ。
今日の昼におじいちゃんに会いに行った時は、顔を見て涙が止まらなかったのに、今はこのブログを書きながら全然涙は出てこないんだよな。

心が悲しんでいることに変わりはないのに。

ただ、おじいちゃんとの思い出を呼び起こすと、楽しかったことだけしか出てこなくて、結局涙は出ないんだよな。

それもこれも、全て祖父が僕に残してくれた宝物なのだと思います。

最後まで読んでくれて、どうもありがとう。