“臥牛城”とは地形が牛の伏せた形に似ていることからいわれ、江戸時代には亘理要害と呼ばれました
亘理城は小堤城に替わって、亘理氏の居城となった城で、築成時期は明らかではございませんが、天正年間(1573〜1592)頃にはすでに亘理元宗・重宗父子が、小堤城の北東の地に亘理城を築いて居城を移しているそうです。
亘理氏の替わりに亘理の地に入部したのは伊達政宗公の忠臣である、あの片倉小十郎景綱
景綱は11年間この地を治めた後、白石に転封となりました。
亘理城は亘理要害と呼ばれ、白石城に次ぐ南の要衝となりました。
『亘理神社』
ご祭神
武早智雄命たけはやちをのみこと
(伊達成実公)
若くして武勇の誉れ高く、天正13年の人取橋の合戦には、劣勢だった政宗軍の形成を逆転させ、以後は戦いのたびに功績をあげ“炎の闘将”の名を天下に轟かせました。
あの大河ドラマ「独眼竜政宗」では三浦友和さんが伊達成実を演じていましたね
☆戊辰の碑
慶応4年(1866)、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は東北地方にまで拡大。
幕府方の最大の拠点である会津藩にどう対処するのかが問題でしたが、結局は会津擁護の奥羽列藩同盟をつくり政府軍に対抗することになりました。
仙台藩はその盟主として戦い、亘理の家中(侍)たちも勇戦しましたが利あらず…
ここ御館(おだて)で仙台藩は降伏しました。
明治元年、戊辰戦争終結の際には、ここ亘理城で仙台藩と新政府軍の調印が行われました。
緒戦以来、亘理の戦死者は33名。
明治維新の尊い犠牲となりました。
亘理城は南部藩領となり、翌年には白石県(後の角田県)に属し、亘理伊達氏当主の伊達邦成は、賊軍の汚名を雪(そそ)ぐため北海道移住を願い出て、明治3年に家臣を引き連れ有珠郡紋鼈村(現在の伊達市)に移住、亘理城は廃城となりました。
☆忠魂碑
この神社で遊ぶことも多かったのですが、社名が亘理神社だと知ったのはわりと最近で、それまではずっと御館(おだて)神社だと思っていました(^^;;
“おだてさん”と呼ばれ慕われている亘理神社
今回あらためてその歴史を知り、とても感慨深いものがございました
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