鎌倉散歩
続きましては
悲劇の親王の悲話が残る、こちらの神社さんです。
あら♪もっと…なんていうか、おどろおどろしい雰囲気かと思いきや、頼朝の墓同様と〜っても良い雰囲気ではございませんか!
ご一緒したかんさん、南天さんも同じものを感じていらっしゃったようです(^^)
『鎌倉宮』
ご祭神
護良親王(大塔宮)
後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)は幼少より英明で、11歳の時に比叡山延暦寺に入室、尊雲法親王と呼ばれ天台座主となります。
父帝の後醍醐天皇は、鎌倉幕府の専横な政治を憂い討幕を計画、親王と比叡山で挙兵するところを幕府に知られてしまいます。
父帝の後醍醐天皇は、鎌倉幕府の専横な政治を憂い討幕を計画、親王と比叡山で挙兵するところを幕府に知られてしまいます。
天皇は捕らえられ隠岐に配流。
親王は還俗して名を護良(もりなが)と改め、楠木正成らと幾多の苦戦をくぐり抜けます。
足利尊氏らが六波羅探題を落とし
新田義貞が鎌倉に攻め込み
ついに鎌倉幕府は北条一族とともに滅びました。
この勝利により後醍醐天皇は京都に還御、親王は征夷大将軍となります。
しかし。。。
征夷大将軍の座を欲した足利尊氏の陰謀により捕らえられ、鎌倉二階堂に幽閉されてしまいました。
その後、北条時行は残党を集め鎌倉に攻め入り、足利尊氏の弟である足利直義は敗北。直義は逃げる際に家臣の淵辺義博へ親王の暗殺を命じました。
護良親王は28歳という若さで苦闘の生涯を閉じるのです。
明治天皇は、非業の最期を遂げた護良親王に対して追慕の念が篤く、親王の遺志を称え永久に伝えたいと、親王終焉の地である東光寺跡に一社を創建、自ら「鎌倉宮」と定めました。
護良親王の忠臣であった村上義光は、吉野城落城の際に「最早これまで」と覚悟を決め、別れの酒宴をひらいた護良親王の前に、鎧に16本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、自分の鎧と天皇の鎧と交換し着用。
「我こそは大塔宮護良親王ぞ。汝ら腹を着る時の手本とせよ」
と告げて腹を一文字に搔き切り壮絶な最期を遂げました。
その間に親王は南に向かって落ちのびたといいます。その後に親王は幽閉→処刑となってしまうのですが。。。
この村上彦四郎義光公を、境内の樹齢103年の欅の大木で彫り上げたのが「撫で身代わり様」で、自分や大切な人の厄除け、病気平癒のご利益を授けていただけるそうです。
鎌倉宮のおみくじは珍しいタイプ。
大吉や吉が細かく分けられています。
私も引いてみましたが「末大吉」でした
置いてある盃に大きく息を吹きかけ、下の写真の石に向かって投げて割ります。
そうすることで体の悪いものを祓ってくださるとのこと。
この日、ご朱印帳を忘れてきてしまったため、鎌倉宮で拝受いたしました!
下の写真のご朱印、向かって左側に星座のスタンプが!
いて座とありますが私もいて座
ご縁を感じます
下の写真、向かって左側に「神鹿」とありますが、昭和34年に仙台市から鹿の2頭が奉納、昭和39年には静岡県の三嶋大社より2頭が奉納され、平成4年に最後の一頭が亡くなるまでの33年間にわたり、多くの人々に「大塔宮の神鹿」と親しまれました。
鎌倉宮には、護良親王が幽閉されている間にお世話をした南御方(持明院)を祀る南方社と、護良親王が幽閉されていた場所がありますが、有料拝観となっています。
今回はそちらへは参拝しておらず、写真がありませんがご参考までに☆
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