先日の日曜日は『邪馬台国の会』講演会でした✨
『卑弥呼と卑弓弥呼』
魏志倭人伝には
「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弓弥呼(ひこみこ)と素より和せず」
という記述があります。
これを日本書紀風に読むと
倭(やまと)の女王(ひめみこ)、卑弥呼(ひめこ)、狗奴国(くなのくに)の男王(ひこみこ)、卑弓弥呼(ひこみこ)と素(もと)より和(あまな)はず
すなわち「卑弥呼(ひめこ)」「卑弓弥呼(ひこみこ)」は、そのすぐ前の「女王」「男王」という漢語の“大和ことば”を万葉仮名風に表記しただけとなり、実名ではなく単に“女王”という言葉の日本での呼び方を示している可能性があります。
※狗奴国の男王は「卑弥弓呼(ひみここ)」と記されていますが、「卑弓弥呼(ひこみこ)」の書き誤りだという説をとっています。
卑弥呼は狗奴国男王の卑弥弓呼との争いの中で没しますが、天照大御神は弟の須佐之男命との争いにより、天の岩屋に隠れます。狗奴国は熊本県、つまり「肥の国」と考えられますが、須佐之男命が追放された出雲国には「肥の河」が流れており、熊本県にも「火川」があります。「狗奴(くま)」と関係ありそうな出雲の「熊野神社」に須佐之男命はお祀りされていることから、須佐之男命が狗奴国男王の卑弥弓呼で、出雲に追放された際に、故郷の九州の狗奴(熊)地方の地名を持っていったのではないか?
古事記の上巻(神話)によれば、須佐之男命は追放されて「出雲国の肥の河のほとり、鳥髪というところに降りていった」とあり、須佐之男命が「八俣の遠呂智(やまたのおろち)」という大蛇を切り散らした時「肥の河が血に変わって流れた」ことから、日本書紀はこの河を「簸(ひ)の川」と記します。
古事記には「肥の国」という地名も記されており、日本書紀の景行天皇十八年五月条や肥前風土記は、この肥の国を「火の国」と記しています。この肥の国は後に“肥前の国”と“肥後の国”に分かれ、肥後の国は狗奴国があったかとみられる現在の熊本県にあたります。熊本県には「氷川」が流れていますが、これは火の川に由来するとのこと。
また出雲国の肥の河は現在「斐伊川(ひいがわ)」といい、この流域には大原郡屋代郷があり、熊本県の八代郡の氷川町を流れる氷川の流域にも昔「肥伊郷(ひいごう)」があったことから「八代(やつしろ)」「屋代(やしろ)」は関係する地名なのではないか。
熊本県八代郡の隣は「球磨(くま)郡」
島根県の斐伊川の上流の果の地には「熊野大社」が鎮座し、ご祭神は素戔嗚命と同神とされる熊野大神「櫛御気野命(くしみけのみこと)」なので、熊本県と島根県の両方に「熊」と結びつく地名や神社があります。
地名の一致などは、どこまでが理由のある必然の一致で、どこまでが偶然の一致なのかは現在のところではわからないですが、将来の研究のための仮説の種、ヒントになるかもしれない、という安本先生のお話でした。
今回のご講義では、今回のメインテーマである
「狗奴国=肥後熊本説」
の文献学的、考古学的根拠がまだまだたくさん取り上げられていましたが、その中の一部を取り上げ記事にさせていただきました(^^)
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