グルーらの米国の対日当局者が日本にも「ニュー・ディール」が必要であると考えた結果が、戦後の占領軍の数々の改革につながります。
「ニュー・ディール」についても今までに何度も扱ってきましたが、これは「カードの配り直し」という意味です。経済的な勝ち組・負け組が固定化されると社会不安が増大し、その不安が退役も含めた軍人に蔓延し始めると「暴力装置」が暴走を開始。殺人やテロルの横行する社会になります。
米国も同じように退役も含めた軍人の暴走につながりかねない事件はありました。それが1932年6月の「ボーナス・アーミー事件」です。



不況の中で、軍人恩給(ボーナス)の即時支払いを求め、列車を占拠してワシントンに集まった退役軍人とその家族は、議会のすぐそばにキャンプを張り議会にプレッシャーをかけます。
それに対し、米国政府は連邦軍の動員を決定し、ダグラス・マッカーサー率いる軍は退役軍人たちのキャンプを攻撃し焼き払いました。鎮圧作戦を写した右の写真で制帽姿で汗を拭っているのがマッカーサーで、煙草を吸っているのが後に大統領となる副官のアイゼンハワー。
1930年代の米国でも、格差の是正は喫緊の問題だったのです。
そしてそれは日本や米国だけでなく、ヨーロッパでも、英国のオズワルド・モズレーやドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニなど、世界を覆う(大枠としての)ファシズムを勃興させます。

1936年に駐ベルギー大使、39年に駐ドイツ大使を歴任し、ヨーロッパで、各国の政治家や外交官、市民たちから日本の情況の説明を求められながら来栖三郎はこう考えます。

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“自分は二・二六事件後まもなく欧州に赴任して、各国においてさまざまな人々から、日本における青年将校運動の原因を聞かれたのであるが、自分はこの運動についてだいたい次のように考えていることを説明した。
自分の観るところをもってすると、この運動の少なくとも近い原因には政治面と経済面とがある。
まず政治面についてみると、内政的にはせっかく発達してきた政党政治が、第一次世界大戦の好景気からきた金力万能的傾向に毒せられて、著しい不真面目さと、腐敗とを示したことと、外政的にはワシントン会議以後の協調外交が外交当局の期待に反して、東亜の安定をも日華親善をも齎さなかったところに、この運動の一つの大きな原因があったと考えられる。
つぎに経済面についてみると、1929年以来世界各国を襲った経済不況が、当然わが国にも押し寄せてきて、国家の財政は著しい緊縮の必要に迫られ、商工業には破綻が続出し、農村は極端なる不況に落ち入った結果、この不景気や生活難に対する不平不満が世界の他の各国におけると同様に、ことごとく政府に指し向けられたものであろうと思われる。”

第一次大戦時のバブル景気に酔った後の日本の政治は「政友会」と「民政党」による二大政党制でした。この二大政党が1920年代から30年代にかけて交互に政権を担いますが、政権はなかなか安定しません。また両党が互いに相手に対して非難合戦を繰り広げ、特に政友会は民政党に対し、右翼・軍人に迎合して政争を仕掛けます。それによって民政党の浜口雄幸首相、次期総裁候補の井上準之助が次々と右翼によって暗殺され、後継の若槻礼次郎首相も満州事変で総辞職。
そして、民政党から政権を奪還した政友会も、調子に乗った右翼と軍人を抑えることが出来なくなり、五・一五事件で犬養毅首相を殺されます。
外交面では、ワシントンとロンドンの軍縮会議への参加などで英米と協調すれば「親英米派」と罵られ、中国の「反日」が日本を脅かしている、と宣伝されている中で中国とトラブルを回避しようとすれば「親中派」と罵られる状況が出てきます。幣原喜重郎のように米国の外交官から本で褒められただけで右翼と軍人から脅迫状がたっぷりと届き、家には落書きされ、怪しい暗殺者が周辺をうろつくのです。
で、この不満は一にも二にも、経済的不況が原因であり、都市住民も地方住民も共に不満を募らせていました。


“しからばこれらの内政外交財政経済に対する国民一般の不平や不満が、何故に青年将校を中心に爆発したかというと、これらの青年将校はきびしい命令服従の制度の下に育った軍人として、民主主義や議会政治に対しては本来理解をもっていないし、対敵闘争を目標として養成せられてきた将校として、親善や協調を主眼とした外交に対しては、本能的に不信をもっていたのであろうから、民主政治の失敗や協調外交の不結果に対しては、真っ先に反動を起こすべき分子は、必然的に彼らであったのである。”

そして軍人特有の事情ですね。
軍隊教育というのは根本的にデモクラシーとは相容れないものなんです。民主主義というのは等しい立場で言葉を尽くして時間をかけて行なう政治体制ですが、軍事行動はまったく逆ですね。上官からの命令一下動くのが軍隊としての行動原理ですから。
そうすると、軍隊教育を受けた人間というのは、基本的に民主主義に対して敵対的な性格を持ちます。これは現代においてもあまり変わっていないのは、声高に政治を語る自衛隊出身者の政治姿勢は往々にして「民主主義の敵」と呼べるような傾向がありますから。・・・もちろん軍人出身でも政治に理性的な人はいます。そうした人々はかえって声高に政治を語ることを控えるものです。
外交面でもやはり、本来は敵も味方もない計算によって動く国際関係に、軍隊出身者は安易に敵味方の観念を持ち込んで理解を妨げます。

こう言うと「軍人を馬鹿にしているのか!」と怒る人もいるかもしれませんが、違いますよ。軍隊で求められるものと、民主主義社会でも求められるものが違う、という話です。軍事作戦のたびに正面の敵を撃たず、話し合いと投票で決めるような軍隊はあり得ないでしょ。同じように軍隊の原理で動く民主主義社会もあり得ないんです。


“また、これら将校の多くは中産階級以下の出身であり、彼らの部下の兵卒は大部分農村や小さな商工業者の子弟であるから、彼らは彼ら自身または彼らの部下を通じて、国民の経済的苦境を痛切に感得していたはずである。
のみならず彼ら自身の将校としての前途は軍縮の風潮によって暗くせられ、彼らの日常の生活は減俸によって脅かされていたのであるから、彼らは経済的にも大きな不満を抱いていていつ爆発するかも知れぬ状態にあったのである。”

緊縮財政の中で公務員給与も減らされ、昇進しようにも上が詰まっています。軍縮が始まれば将校たちは早めに退役させられるかもしれません。



この二枚の画像は、1935年の都市の没落する中産階級を描いたものです。娘を身売りする農村の話はよく聞くでしょうが、都市住民の姿です。
左のものは当時の大学の様子。学生たちは就職活動に奔走していて授業に出ているのはたった二人。
そんな就職活動を終え、やっと就職出来たかと思えば、右の画像。
背広を着たサラリーマンが「お払い箱」にされ、工場勤務では門前払い。カップルを見て「しゃくにさわるネ」と呟き、労働組合のポスターを見ても「俺にはこんな元気もでねえ」。「腹が減るー」と肉体労働に行けば、「その体じゃ・・・ね」と断られ、追い詰められ最後に買ったのは「痛くねえ死に方で」と睡眠薬。
これが、80年ほど前の東京。青年将校たちもこの一群に加わる可能性をひしひしと感じていたはずです。

“ことに満州事変以来、中央政府がいかに無力であるかが暴露され、議会は国民の不信を買ってしまったのであるから、彼ら軍人は政治干与に関する禁令を遠慮会釈なく行動を起してしまったのであって、要するに社会党とか共産党という政党の容認せられている欧米各国においては、当然左翼政党の活動となって表われるべき事態が、左翼運動の禁止せられている日本においては、青年将校運動という特種な矯激な形をとったものである、というのが概略、自分の見方であった。
青年将校運動は大体においてかくのごとき背景をもっていたものとみられ、したがってこの運動の初期においては、あるていどまで一部国民の共鳴を買ったようであり、青年将校自身としても国民大衆のために運動を起こしたもののごとくに考えていたようであったが、民主的勢力のあまりにも脆い敗退によって、これら一群の将校らは政治権力の全部を把握することがいかに容易であるかを悟ると同時に、新たに獲得した権力に酔ってしだいに国民大衆から遊離し、彼ら独自のイデオロギーによって国全体を引きずって行くようになったのである。”

本来、こうした社会の不満を吸収して改善に動くのは「左翼」の仕事です。ところが大日本帝国では社会主義や共産主義の運動が厳しく弾圧されており、細々と生き残っているのは、右翼や特高、憲兵にとって手を出しにくい上流階級のお坊ちゃんお嬢ちゃんばかり。戦後も含めて、なかなか地に足のついた活動は出来てこなかったんですね。
そうすると、「革新」を求める没落せる中産階級や貧困者は、極右による「維新」に向かう他はなかったし、軍人たちもその期待に応えようとしたことが、更なる破滅へと続く「善意で舗装された地獄への道」だったことになるのでしょう。



リンクしてあるのは、Sage The Geminiの「Gas Pedal」 ft. IamSu。