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ここのところ立て続けに、エスター・ヒックスによるエイブラハムの「引き寄せの法則」シリーズを3冊読んだ。
もちろん、「偶然」だ。
そのタイトルからしてどこか胡散臭いものを感じていたのだが、たまたま古本屋で売っていたのを見つけ、「まあ買ってみるか、100円だし」という程度のノリだった。
だが、読み始めてすぐにエイブラハムという「存在たち」の言葉に思わず引き込まれた。
そのときのことは、前にブログにも書いた。
「引き寄せの法則」は確かに、願望の実現プロセスの指南書だが、それだけではない魅力があった。おれが勝手に胡散臭いと思い込んでいただけだった。疑り深い貧乏人のような目で見ていた。
だからと言って、この本を読み終えた今のおれがリッチな生活を送れるようになったかというとまったくそうではない。むしろ困窮している。
挙げ句の果てには、いくつかの気になる箇所をメモに残し、すぐにまた売ってしまった。
最近、おれは読んだ本は自分なりに重要だと思ったことをノートを取った後はすぐに売り払うことにしている。なぜなら、部屋の隅で埃を被らせるより他の誰かが読んだ方がいいと思うからだ、とまるでブックオフの回し者のようだが、実は部屋が狭いからだ。
そういうわけで、おれにとっては読書もまた一期一会だ。
それはともかく、悲しむべきか喜ぶべきかおれの関心は、リッチになることよりも「引き寄せの法則」そのものに向かってしまった。
そして、また別の日に古本屋に行くと、今度は「実践・引き寄せの法則」を見つけたので買った。これも同じくエイブラハムの本だ。
確か、33個の実例をあげて、どのようにして「引き寄せの法則」を用いればいいかということが紹介されている。内容はどれも似たようなものだ。しかし、なぜかなるほどと思ってしまう。おれが単なる健忘症なのかもしれないが、ページをめくるたびに新しい知識を得たような喜びがあった。
同時にどこかで聞いたような話でもあった。
おれは自分の記憶を辿りながら、エイブラハムの言葉をiPhoneに書き留めた。
そして、読み終わると売り払うのだった。
それから数日後、まるで「次はこれですよ」と言わんばかりに古本屋の棚で、「引き寄せの法則の本質」を見つけた。
これも面白く読むことができた。
そして、やっと気づいた。
「引き寄せの法則」とは、禅である。
これらの本を読んでいる間、ずっと感じていた既視感は15年くらい前に読んだ「臨済録」に似ていたからだと分かった。
つまり、「内なる存在」とは、仏性である。
(エイブラハムたちはそうした名前を使うのは好まないかもしれない。聖霊という名前も好まないようだし)
ただ、個人的に禅には「愛着」があるので理解し易いし、禅は他のどの仏教の教えより「自由」や「独立」の気風があるという点で、エイブラハムの教えと通じるものがあると思う。
禅は、まずお前が悟るのだと迫る。エイブラハムも他人の願望など気にするな、ただひたすら自分の願望に集中するのだと言い、あなたは本来、自由であるのだと言う。それを禅は、人間本来無一物だと表現する。
エイブラハムは、「自分が自分の経験の創造者である」と何度も繰り返す。
禅は、随処に主と
エイブラハムは、「すべての言い訳を捨て去り、自分の経験に影響を及ぼすのは自分だけだという自覚を持って、いわば裸で立ってもらいたいのだ。」と言う。これこそまさに臨済録にある、「赤肉団上に一無位の真人有り」だと思う。
「あなたが自由であれば、どのような状況の下でも、自分がなりたいものになれる自由を持っており、他人がそれをどう思おうと実際に気にしない。彼らがあなたのすることをどう思おうが、それは彼らの問題である。」…これなど、「融通無碍」そのものだ。
つまり、「引き寄せの法則」の本質は禅なのだ。もちろん逆でも構わない。
どちらも、存在の自由についての真実を語っているのには変わりない。
真理は変わりようがない。だが、その表現は時代と共にアップデートされる。
思えば、何千年も前からバージョンを変えつつ真理は語り継がれてきた。
ブッダもイエスも古今東西のあらゆる賢者たち、果ては、宇宙人までもやってきて同じ話を様々な角度から色んな切り口で何度も繰り返してくれたというのに、おれたちときたらどうだ?
今のおれたちのこのザマはどうだ?
▲そう言えば、昔「臨済録」を読んでいるとき、この曲がずっと頭のなかでかかっていたのを思い出した。
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