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今回、ちょっとした必要性があって眼鏡を作ることになった。
作ると言っても日常的に使用するつもりはないので、街中のどこにでもあるディスカウント店で一番安いやつだ。
店頭に並べられた数種類の眼鏡をあれこれ試して選ぶと、店の隅に案内され視力検査を受ける。
「お客様の視力は、0.1ですね」
「そうなんですか。で、僕の目は何ていうかどういう状態なんですか?」
「近視ですね」
「僕は近視なんですか!」
というわけで、おれは近視だった。
視力低下はここ近年薄々気づいてはいたが、「近視」であるとここまではっきりと断定されると新鮮な驚きを覚える。
これは的中率抜群の占い師に自分の性格やなんかをきっぱりと断定されたときの衝撃と似ている。
占い師に診てもらったことはないが。あくまでもイメージです。
まあこれは偏見だが、人は他人から自分のことをきっぱりと断定されると、動揺しつつも案外受け入れてしまう動物なので占いが廃れることはないのだろうなどと思う。
その断定が好ましいものであれば、より一層他人の断定を受け入れやすくなる。
「あなたは本当はもっと評価されるべきなんですが、ご自身の思い込みがこれを邪魔しています」
「これからだんだん良くなっていきます」
「あなた、最近ご先祖のお墓参りされましたか?」
「あなたの前世はヨーロッパの王様に使える騎士でした」
「あなたは近視です」
誰も彼もが誰かのアドバイスを求めている。
…かくして、おれは店員さんの勧めに従って、軽めの度数の眼鏡を作るのだった。
「慣れないうちはもしかすると頭痛とかもあるかもしれません」
そう言われてみれば、頭痛こそないものの浮遊感のようなものは感じる。
人生初の眼鏡をかけて、おれはフワフワと街を漂う。
確かに世界はその輪郭をくっきりと浮かび上がらせておれに迫ってきた。
すれ違う人々の表情や顔の皺、シミもよく分かる。
遠くの看板の文字もよく見える。
「激安!」、「中古車買取即金!」、「早朝割引人妻ヘルス」、「番号そのままでiPhoneに機種変」、「カルビ食べ放題」…
ふと去年、子どもを連れてプールに行ったときのことを思い出す。
娘のゴーグルを借りて水の中に潜ったら、水がレンズの役割をするのだろう、視界が明瞭になった。
新しい眼鏡のもたらす浮遊感とあいまっておれは水中にいるような錯覚を覚える。
iPodで音楽を聴きながら歩いているような感覚にも似ている。
音楽を聴きながら街を流すと、目に見えるものがすべてPVの風景に見えてくるように、眼鏡をかけるとすべてが明瞭に見えるのに「そこ」にいないような気がしてくる。
世界をもっと明確に把握しようとして、世界から分離してどこか別の場所から眺めているような気がしてくる。
もしかして、補聴器も同じような感覚をもたらすのだろうか。
ミュージックプレイヤーは別にして、その他の感覚を補強するためのツールを通して把握する世界はそれらを何も使わないときの感覚とは別物かもしれない。
人は世界をまずは五感によって把握する。その五感のひとつである視覚に作用するツールを使うわけだから、単に視力を補強する以外に当然影響があると思う。
もちろん日常生活においては、誤差の範囲に過ぎないだろう。
ただ、あくまでもそれは「日常生活」においてのレベルの話で、その下に沈んで隠れている意識の領域では大きな違いが生じてくるような気がする。
まだそれが何なのかは分からない。
ただ、今までの自分とは別人になったような感覚はある。
普段しない眼鏡をすることで、逆に自分が消えてしまったような気がする。
水の中にいるようだ。
そう言えば、そんなタイトルの曲があったことを思い出す。
SION…おれはあらためてこのシンガーの正直さを感じるのだった。