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繋がりが大切だからといって、物同士、人同士、むやみにくっつけば良いというわけではない。

そこには、秩序や調和、礼儀が必要である。
上位・下位それぞれの礼儀があり、それで社会が美しく装飾される。


物事を美しく装飾するには、まず充実した実質が必要である。
表面だけを飾るのはただの虚飾である。実質が本であり、美しい飾りは末である。この本末を転倒させてはならない。

論語(雍也篇)にも、「内面」に偏れば野暮になり、「外見」に偏れば虚飾に流れると言って戒め、内面と外見の調和を説く。


「賁(美しい飾り)」とは、陰陽の調和である。陰だけでも陽だけでも美しく立派な飾りにはならない。陰陽・剛柔が混ざらなければならない。


「飾り飾りと言うが、内面が充実していれば、飾りなど不要だ!」と思うだろうか?

いかに誠実で真心を持っていたとしても、その人の言葉や伝え方が未熟なら、己の意思を伝えることは厳しい。
礼儀や文飾などを加えて上手く表現できれば、相手を不快にさせることなく、自分の意思が通じやすくなる。

美しく飾ることで、志がより一層通りやすくなり、伸び栄えることが容易にできるようになる。
ただし、内面なく外見ばかりというのは虚飾であって、行き詰まりやすいが。

賁(飾り)は、物事が通って盛んになる道ではあるが、爛熟するまで突っ走ってはよくない。
特に大きなことは、飾りだけでは上手くいかない。飾りの力にも限度がある。

美しく飾ることは、物事を進めていく上で、少し便利で役に立つという程度である。


物事は美しい飾りがあって輝くもの。
ただ、あまりに飾りに偏ってしまっては、虚飾に流れてしまう。
止まるを知ることで、人間も社会も文明も美しい色彩が出来上がる。
何事も、節度がなければ、完成する前に破壊されてしまう。

飾りの極みとは、質素な本体に帰ること。色彩で言えば、それは「白」である。


内面の充実が外見にあらわれる。そこに美しく飾りを加える。
人も社会も強く優しく美しく。