学園祭の打ち上げを、香篠君を連れてこっそりと抜け出した。平安コメディーはそこそこ成功したといえるだろう。みんな盛り上がっていて、私たちがいなくなったことになど気が付かないはずだ。
「時計台にのぼってみようよ」
踊るように歩くと、香篠君は抑えるように私の手をとった。
「浮かれてるね。酒も入ってないのに」
「そう見える?」
繋がった手をぶんと振ると、彼は笑った。
「のぼろうか」
けれど結局時計台の入り口には鍵がかかっていて、中に入ることはできなかった。
「残念だったね」
香篠君の横顔を見上げると、どこかぼんやりした顔で彼は呟いた。
「外から見るだけの方が、良いってことか」
そのまま前を向いたままで、彼は独り言の続きのように言った。
「別れようか」
私は思わず繋がれた手を強く握った。
「…どうして?」
まだ、お弁当だって作ってきてないのに。
香篠君はちょっと黙って、そして唐突に「俺がるみを好きになったのはさ、」と話し始める。
「俺のこと、甘やかさない人だったから。新鮮だったし、それに甘やかさないけど面倒見てくれるっていうか。あんまり今まで周りにそういう人、いなかった」
「…ありがちな動機ね」
「なのに、自分は誰かに甘やかされたがっていたから」
咄嗟にした唇を噛んだ私の顔を覗き込んで、図星だ、と柔らかく笑う。
「だから俺が甘やかそうって思ったんだ。俺がいないと立てないぐらいに、めちゃくちゃにどろどろに甘やかそうって」
彼の、どこか薄い狂気の潜む告白を、私は俯いて聞いていた。
「でも、できなかった」
そんなこと、ない。
「るみは誰かに甘やかされたがっていた。でも誰でもいい『誰か』じゃなかった。特定の、ある『誰か』だった」
手を離そうとする気配を感じて、私は意地になったように右手に力を込めた。まるで命綱を握るかのように。
香篠君は少し困ったような、苛立ったような顔をした。
「もうやめよう。こっち向いてくれない女と付き合い続けられるほど、俺は鈍感でも寛大でもないよ」
香篠君の綺麗な右手の指が、彼の左手に絡む私の右手の指を一本ずつ丁寧にほどいていく。
私たちの手は、こんなにもしっくり馴染むというのに。
「甘やかしてよ」
声を絞り出す。
「甘やかして。めちゃくちゃに甘やかして。私もちゃんと香篠君のこと、見る。香篠君無しじゃ生きていけないくらい、依存してみせる」
香篠君があの冷ややかな目で私を見下ろすのを感じながら、ちょうど私の小指をはがそうとしていた彼の右手を、左手で抑える。そのまま両手をつないで向き合う格好になったまま、私はぼろぼろと涙を流していた。
自分が色恋沙汰で泣くような女だとは昨日まで思ってもみなかった。別れを切り出されても、静かにそれを受け取ることのできる女だと思っていたのに。
けれど、これが色恋沙汰などではなくて、生死をかけたことのように思われるからかもしれない。恋に落ちている人は皆そのように感じるのかもしれないけれど。けれど、確かに香篠君はたった一つの命綱だった。これ以上千歳におぼれていかないための。
そのまま強く引き寄せられ、息苦しいほどにきつく抱きしめられる。
「少しは、成功してたかな」
耳元で囁かれて、ああ、と思う。ああ、幸せかもしれない、と。
なのに、泣きたいぐらい悲しいのは、でも仕方のないことだと思った。
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