「先生のことが、好きです」
他に誰もいない職員室。傍らに立った生徒にそう告げられ、俺は座ったまま彼女を見上げた。
正直なところ、全く動揺はしなかった。教師となって10年、この私立の女子高に勤めて6年。この類の好意を生徒から寄せられることは初めてではなかった。よくあること。この年頃の女の子は、どうも年上の男に一度は恋をしてみるものらしい。
「そう。ありがとう。でも、その気持ちを受け取ることができないのは、神崎も分かるよな」
言葉を選び選び告げる。受験生を過剰に動揺させたくはなかったし、これから1年間担任を続けていく上で、やりにくくなるのもごめんだった。
「はい」
少し俯いて彼女はそう言った。神崎文乃。去年も授業を受け持っていたので決してよく知らない生徒ではない。教師に愛の告白などするタイプだったかな、とふと疑問に思った。物静かだがとても賢い生徒で、恋が成就すると思っていたわけでは決してないと思う。
「先生が教師で、私が生徒だからですよね」
切りそろえられた前髪の下の、黒目がちな瞳が俺を見た。
「まあ、そうだね」
恋は理性も上回る、などという性格ではない。例え告白されたのがストライクゾーンど真ん中の女性だったとしても、自分の生徒だというだけで恋愛対象からは外れる。
「例えば、私が卒業して先生の生徒じゃなくなって、」
神崎は今しがた失恋したとは思えない冷静な声で続けた。
「それからもう一回告白したら受け取ってくれますか」
目を瞬かせた。以前にもそう言って食い下がってくる少女もいたが、まるで条件を変えて試行してくるコンピューターのような神崎の言い方を少し面白く思ってしまったのだ。
「生徒だから断る、ということはなくなるね」
思わず認めてしまう。
「けど、だからってOKするとは限らないよ」
神崎は頷いた。
「そうだと思います。でも可能性がゼロでなくなるのなら、トライする価値はありますよね」
思わずぷっと吹き出してしまう。
「根性あるなあ」
笑った顔のまま神崎の顔を見上げると、色白の頬にさっと朱がはしった。恥ずかしがるところもずれている、とさらにおかしくなる。
「いいよ」
「え?」
赤い顔のまま口を小さく開いた彼女に告げる。
「卒業して、神崎がちゃんと大人になって、それでもまだ先生のこと好きだったら、告白しにきていいよ」
あの奇妙な告白はまだ初夏のことだった、と思い返していた。卒業式も終わり、もう生徒ではなくなった彼女たちは既に校舎にはいなかった。担任していた教室の黒板には、色とりどりのチョークで一面にメッセージや少女らしい絵がかかれている。
あれ以降神崎ははっきりと好意を告げてくることは無かったが、質問やら提出物だと言ってはよく訪ねてきていた。
「今のうちから先生に好意を持ち始めてもらえば、成功率も上がると思うので」
大真面目な顔で言うので、その時も笑ってしまったのを覚えている。
季節は過ぎゆき、俺は一教師にしては神崎のことを少し知りすぎてしまっていた。大人しくまじめに授業を受けているが、休み時間はそれなりに友人たちとふざけていること。大人ぶってコーヒーを飲むくせに、甘い菓子が一緒でないと半分も飲めないこと。丸みが無くて少し雑な文字。伸ばしている途中だという黒い髪。予想外のタイミングで赤く染まる、頬。
「将来のことはまだ決められないけど。でも先生の授業、面白かったから」
そう言って文学部に進学を決めた神崎は、約束通り何も言わないまま卒業していった。なんだよ、とちょっと思う。再び告白などされたって困るだけなのに、まるで何もなかったかのように学校を出て行ってしまった彼女に心の中で舌打ちをする。
消すのは明日以降でいいか、と黒板を眺める。今すぐ消すことはできない程度には、感傷的な気分になっていた。
ざっと端から読んでいく。今までありがとう、また会おう、絶対彼氏作ろうね。彼女たちが脱ぎ捨てていった少女たちがここにまだ、残っている。
「谷原先生、大好き!」
その文字を見たとたん、声が聞こえた気がした。答案やノートで嫌というほど見慣れた文字。どうしても他より意識してしまっていた字癖。過剰なハートマークで冗談めかしたその文字が痛いくらいに真剣なのだと、多分俺だけが気付いた。
もう否定できない。いつからか神崎文乃の成長した姿をこっそり想像していたことを。大人となった彼女がもう一度好きだと言ってくれる日を待っていることを。
それから3年が過ぎた。俺は相も変わらぬ生活を送っている。少女たちからのほのかな好意をのらりくらりとかわして、大人となっていく彼女たちを見送っての繰り返し。
神崎文乃は、結局俺の前に再び現れることはなかった。
ちゃんと大人になったのだろうと思う。外の世界に触れて新しく恋をして、一瞬心惹かれてしまった年上の男のことはしっかりと思い出として片づけたのだろう。そうでなければ困る。こんな空間で抱く恋心など、幻にしてしまわなければいけない。
下校時間の過ぎた校舎の見回りをする。ある3年生の教室の黒板の文字が消されていなかった。ちっと舌打ちをして黒板消しを手に取る。
ここは、神崎を担任していた時の教室だ。卒業式の日の文字を思い出す。先生、大好き。
白いチョークを手に取ったのは無意識だった。思い出す、こっそりと出してやったコーヒーマグにつけられた、唇。
「俺も」
そう書いた文字はひどく頼りなくて、思わず苦笑した。30も半ばの男が、何をやっているのだ。
女々しいその文字を乱暴に消して、黒板消しを持ったまま窓際に向かう。外に腕を突き出して、両手の黒板消しを強く打ち付けた。
ぱん、とくぐもった音とともに粉が舞う。俺の手から離れて柔らかな風に乗って立ち込めた煙は、跡形もなく静かに消えていった。
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