泣いてなんかあげない。 | better than better

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彼は、私の死んだママのことが忘れられない。
一方通行の片思いたち


素人小説です

  彼に連れてこられたのは、最初の夜と同じホテル、同じ部屋だった。高級ホテルの最上階のスウィートルーム。あの日ははしゃいで窓から夜景を見下ろしたな、と思い出す。
  もちろん今はそんなことをできる筈もなく、静かに鞄を机の上に置いた。
「ルームサービスを頼もうか」
「お願い」
あの頃のように緊張することもなく答える。彼もそんな私を見もせずに、内線をかけた。

  彼の妻がとある有名女優であることは承知していた。彼女の出演するものはなるべく目にいれないようにしてきたけれど、半月ほど前の朝の情報番組でのそれは、不意打ちとして私に襲いかかった。
『女優の丸岡那月さんが妊娠を報告しました!』
祝福すべきニュースとして流されたそれは、私にとってはまるで死神の挨拶のようだった。いくらチャンネルを回しても、幸せそうに取材に応える彼女が映しだされる。乱暴に電源を切って、嘘つき、と呟いた。

  彼は二つのグラスにシャンパンを注ぐ。
「乾杯」
「あら、なにに?お子さんができたことにかしら?」
皮肉げに返すと、気まずげにグラスを持った手をおろした。
「そんな風に言わないでくれるか」
「奥さんとの仲が本当に悪かったわけではないと分かって、安心したのよ?」
なおも嫌味を続けると、彼は眉間にシワを寄せて言った。
「君には本当にすまなかった」
とうとうだ、と思う。いつか終わりがくることなど分かっていたのに。目をそらし続けて彼の紡ぐ甘い夢に浸っていたのは、私のせい。
「子どもが生まれる前に、この関係を終わりにしたいんだ。分かってくれるか」
ここで泣けばいいのだろうか。泣いて縋って、迷惑はかけないからこれからも傍に置いてくれと言えば、まだ終わりにせずに済むのだろうか。
「ええ」
けれどそんなことを言うのは、私のちっぽけなプライドが許さなかった。
  彼はほっとしたような、拍子抜けしたような表情を浮かべた。私の涙でも期待していたのだろう。彼はいつもそういう人だった。
「すまない。今住んでいるマンションは今まで通り君の名義だし、必要なものがあれば言ってくれ。用意しよう」
手切れ金のことなのだろう。やはり愛人でしかなかったのだな、と改めて思い知らされる。
「そんな話は後でいいわ。ねえ、乾杯しましょ」
グラスを掲げてみせると、彼は一応躊躇するようなそぶりで再びグラスを持った。
「そうね、二人の思い出に、乾杯」
一気に中身を呷ると、そのまま彼に口付ける。肩に手をまわして至近距離で微笑んでみせると切羽詰まったように再び唇を重ねてきた。混じり合う息。その味は、最初の夜と同じシャンパンの味だ。わざわざ同じものを頼む芸の細かさにほとんど憎悪のような気持ちで声を漏らす。
  自分は勝手に私を捨てる癖に。どうしてそうやって私の中に自分を刻みつけようとするの。その理由が愛なんかじゃないことは分かっていた。
  それならば私も私自身を彼に刻もう。泣いてなどいない、終わりを告げられても平気な顔をしている私を忘れられなくなればいい。私は初めて、彼の背中に小さく傷を、つけた。


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