烟る落ちる流れる 1 | better than better

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彼は、私の死んだママのことが忘れられない。
一方通行の片思いたち


素人小説です

  最近引っ越してきたその夫婦は、噂好きな団地の住人たちの格好の話のタネだった。歳の差があるということだけで何かと野次馬たちの好奇心を刺激するのに、それに加えて夫の方の堅気には見えない胡散臭さと、妻の方のちょっとぞっとするような色気のせいで、俺の真上の部屋に住む彼らは注目の的だった。
 就活も卒論も終わって暇を持て余していたので、噂話の現場にはよく遭遇した。曰く、夫の方はもともとヤクザらしい、とか。夫はバツイチで略奪婚らしい、とか。妻の方は水商売の世界では有名な人間らしい、とか。色々な芸能界のゴシップが生まれては忘れられていく中で、我が団地内でこの話題は根強い人気を誇っている。
「慎ちゃんもさあ、あーんなお色気むんむんの人なんか、たまらないでしょう」
遠慮とか恥じらいとかをどこかに置き忘れてきてしまったような昔からの知り合いにそう言われて、俺は苦笑した。
「加藤さんにそんなこと聞かれるの、気まずいからやめてくださいよ」
内心、立派なセクハラだとうんざりしながらも軽くいなす。
「そんなこと言っちゃって。うちの旦那もあの人とすれ違うと鼻の下伸ばしちゃって、もうみっともないったらありゃしない」
本当に話したかったのはこっちか、と思いながら適当に相槌を打つ。そうしながらも、加藤さんの旦那さんに共感していた。別にどうこうなれるとは思っていないけれど、彼女とすれ違って、軽く微笑まれながら挨拶をされるだけで、気分が良くなってしまう。男はそういう生き物なのだ。

 「あらこんにちは」
B棟の入り口で噂の人妻に出くわした。鋭い雨が静かに降る2月のこと。
「どうも」
何となく追い越すのも変なので、並んで階段を昇る。3階に着いて会釈しながら別れようとすると、おもむろにダウンジャケット越しに腕を軽く触られた。
「ごめんなさい、お願い事していいかしら」
腕に下げたエコバックからはネギや白菜がのぞいているし、着ているものもユニクロのダウンなのに、首をかしげてこちらを見上げる彼女は、白黒の映画の登場人物のようだった。赤い唇だけが、やけに目に飛び込む。
 頼まれたのは、部屋の電気の交換だった。
「夫に頼むと、すごく不機嫌になるの。助かったわ。ありがとう」
古い電球を彼女に渡すときに、そっと指先が掠めた。マニキュアなど塗っていない、けれど綺麗に磨かれた爪。ダウンを脱いだ彼女は、くすんだ白色のセーターを着ていた。V字に開いた胸元に、視線が引き寄せられる。
「コーヒーでも飲んでいってちょうだい」
  まるで安っぽいアダルトビデオのようだ、と彼女に口づけながら思った。彼女の身体は細くて華奢で、なのにどこまでも沈み込んでしましそうな得体の知れない柔らかさを持っていた。腰のラインを手のひらでなぞると、仰け反る首元が誘うように白く光った。背中や脇腹にある酷い痣にそっと舌を這わせると、まるで痣自体に意志があるかのようにひくひくと肌が蠢く。
「富原さん、」
耳元で名前を囁くと、反対に頭を引き寄せられ、熱い息と共に返事をされる。その名前で呼ばないで。
「澪、そう呼んで。私の、名前」
澪、と口に出しながら再び彼女の乳房に唇を寄せた。
 澪が淹れた二杯のコーヒーは、殆ど口もつけられないままに俺たちの横でゆっくりと冷めていった。

 それから何度も彼女と身体を重ねた。もう二度と団地内で会うなどというリスクは冒せるはずもなく、わざわざ電車で何駅か行ったところのラブホテルで逢瀬を重ねた。
「夫が、殴るの」
何度目の時だろうか。ひとしきり抱き合った後に、澪がそうぽつりと漏らした。
「気づいていたでしょうけど」
気づかないはずが無かった。彼女を裸にするたびに、その白い身体には新しい青黒い痣がついていたのだから。
「なんで殴るの」
年下の男だけに許された、間抜けな質問を返す。
「知らないわ。あの人は、それしかできないの。殴る、怒鳴る。そのくせいつも許して欲しいと泣くんだもの」
前はそれでも好きだった、と澪は自嘲気味に笑った。
「だからあの人と一緒になれたの。どんなに他の人を傷つけたって、構わなかった。彼を救えるのは私だけだと思っていたから」
今は?自分の求める答えが分かっていながらも、意地悪く聞いてしまう。
「もう分からない」
そう言って彼女は俺の方に腕を伸ばした。
「愼司くんがいるから、私は大丈夫よ」
その求めに応じて俺もまた彼女に手を伸ばす。まるで救いの手を伸ばすみたいに。


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