烟る落ちる流れる 2 | better than better

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彼は、私の死んだママのことが忘れられない。
一方通行の片思いたち


素人小説です

 新入社員として働き始め、1か月が経った。ようやく研修も終わりが見え、配属先が決定し、その報告もしたくて澪をいつもの場所へ呼び出した。
「俺、名古屋に行くことになったよ」
汗ばんだ身体を抱きしめながらそう伝えると、剥き出しの背中がこわばるのを感じた。
「名古屋?」
「うん。5月で研修が終わったら、名古屋の支社に配属になった」
「行くの?」
単語でしか返さない彼女を不審に思って、後ろから顔を覗き込む。
「会いに来るってば。名古屋なんて、新幹線使えばすぐだよ」
甘い言葉のつもりで口にしたが、澪は俺の腕からするりと抜けて、鋭い目で睨みつけてきた。
「嘘つき。愼司も、結局私を救ってはくれないんだわ」
語気荒く言い捨てた後、彼女は勢いよくベッドから降りると乱暴に服を身に着け始めた。
「待てって」
思わず腕をつかんで振り返らせて、ぎょっとした。彼女の目からはとめどなく涙が零れ続けていた。
「そうやって中途半端なことするくらいなら、私のこと抱かないで」
あなたにとっては暇つぶしのお遊びでも、私にとっては唯一の救いだった。そう弱弱しく呟くと、澪はその場にしゃがみこんだ。何度もこの腕の中に収めた、小さな躰。
「一緒に行こう」
その言葉が出たのはほとんど無意識だった。
「一緒に名古屋に行こう。二人で住もう。大丈夫だよ。あの人から、逃げよう」
ほんとう?そう言って見上げる涙で煌く瞳があまりに無邪気で、まるで以前から考えていたことかのように力強く頷く。
「俺に、任せて」

 それからの日々はまるで夢の中をふわふわと泳ぐようだった。二人で賃貸のアパートのサイトを見てはああでもないこうでもないとじゃれあって、彼女の好きそうな食器なんかを見つけると思わず店の前で立ち止まって。名古屋行きの新幹線の切符を2枚購入した瞬間は、もう戻れないのだと手のひらがしっとりと濡れた。
「これ」
そう彼女に切符を渡すと、彼女は一瞬それをじっと見つめた後、心から嬉しそうに笑った。
「これで、あなたと一緒に行けるのね」
彼女の痣はとうとう服では隠せないところまで増え続けていて、団地の住人たちは気まずそうな顔をしながらも、それでも噂を辞めることはなかった。
「早く行きたいわ」
そっと俺の胸に頬を寄せて呟く。
「早く、ここじゃないところに行きたい」
 守るべきものがあると人は頑張れるのだ、とまるで主人公みたいなことを思った。彼女を救えるのは、俺だけだ。

 名古屋へ向かう当日。新幹線の中で落ち合う約束をしていた俺は、家族の見送りも断って一人先にホームに立っていた。柔らかく重たい雨が降っているのが見える。丁度昨日梅雨入りしたとテレビの天気予報で言っていた。
 アパートを見て彼女はどんな顔をするだろうか。写真だけは見せていたけれど、玄関を入った瞬間の彼女の表情を早く見たい。今日は荷物を置いたら美味しいものを食べに行こう。二人で夕食をとることなど、今までできなかったのだから。彼女のためにこっそり注文した白い食器たちが届いたら、喜んでくれるだろうか。二人分の食事が並ぶ、白くて幸福な食卓。
 そんなことを考えていると時間はあっという間に過ぎて、雨をしっとりと被った新幹線がホームに滑り込んできた。澪の姿が見えないことにすこし不安を覚えながらも、先に車内に入る。座席に座ると、独特のマットの匂いが俺を包んだ。
 待つ。来ない。メールを打つ。返事が来ない。窓の外を見る。黒い髪と白い肌の、あの綺麗なコントラストが現れない。
電話を掛けると、留守電にすら繋がらずにコール音が鳴り続けた。しびれを切らして電話を切る。何故。どうして。思考がまとまらないまま、発車のアナウンスが流れる。まもなく、のぞみ109号広島行き、発車いたします。
 ゆっくりと過ぎ去るホームを呆然と眺めた。その瞬間、手のひらに収まった小さな機械が震える。
「ごめんなさい」
恐る恐る開いたメールにはそれだけ記されていた。慌てて電話をかけるけれど、素っ気ない機会音声が電源が切られていることを告げてくるのみだった。
 窓の外から、彼女の住む町が、俺の住んでいた町が、雨の中遠ざかっていくのだけが見えた。

 名古屋での生活は順調だった。仕事の覚えが早いと褒められることも多かったし、年上の女性の扱いには慣れていたから職場での居心地も悪くない。早く一人前になる理由は無くなってしまったけれど、まるで惰性のように俺は前へと進んでいく。
 盆に実家へ帰った。相変わらず灰色のまま佇む団地は、緑の葉に覆われて蒸し暑い例年の夏を作り出している。
「そういえば、上の富原さんの奥さんのこと、聞いた?」
久々の家族の食卓で、母が何故か声を潜めて話し出した
「いや、なにも。なにかあったの?」
コロッケをつまむ箸先が揺れたのを自覚したけれど、何でもないような声で尋ね返した。
「愼司が名古屋行ってすぐだったかしらね、男の人と駆け落ちしちゃったのよ!」
ドラマの最終回のあらすじを話すかのように興奮しながら母は一息で言った。
「ホステスしてた時から続いていた人なんだって。傷も多かったしみんなで心配してたけど、奥さんの方だってやることやってたんじゃないって拍子抜けしちゃったわよ」
いつもなら内心見下してしまうような野次馬話も頭に入ってこなかった。蝉の声が、脳に突き刺さる。
「やっぱり、ああいう人にはたくさん男の人がいるのねえ」
自分の息子がまさかそのうちの一人だとは思いもしないであろう母がしみじみと呟く。
 救いのヒーローから悲劇の主人公を経て、ただの数多の登場人物の中の一人になってしまった俺は、ただここで黙って、彼女の白い肌と黒い痣を思い出すことしかできなかった。


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