酒の番 | better than better

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彼は、私の死んだママのことが忘れられない。
一方通行の片思いたち


素人小説です

  まあるい月な澄み渡る夜でした。暗いはずの山も仄かに銀色に光り、涼やかな風音の中に虫の声が聞こえます。
「ああ、いい夜だ」
庵から顔を覗かせた神様は感じ入ったように呟きました。
「こんな夜は、ひとつ酒でも作らねばなるまいよ」
この神様はお酒をつかさどる神様ですから、そう言っていそいそと草の中を進んでゆきます。
  一面に揺れるすすきを何本か手折ると、それを丁寧に編んで拳くらいの大きさの袋を作りました。それを腰に留めると、今度は夜空に浮かぶ月に両手を伸ばします。そうっと月の表面を撫でますと、掌にふんわりと光が満ちました。こぼさぬようにそれを腰の袋に流し込んで、ぎゅうっと口を縛りますと、網目からきらきらと銀色が透けて見えました。
  そのまま西へ進んでゆきますと、小さな川に、川底の小石まで浮かび上がるように見える程清らかな水がぱしゃぱしゃと飛沫をあげて流れておりました。その川辺にしゃがみ込み、袂から取り出した瓢箪にその水を汲みました。どこから出てくるのでしょうか、10本ほどの瓢箪に水を汲み終わりますと、それも腰にぶら下げて更に木々の生い茂る方へと進んでゆきます。
  不意にぽっかりと更地になる場所へと出て、神様は瓢箪を地面に置きました。大な岩の窪みにその水を注ぎますと、水面にゆらり、ゆうらりと満月が映ります。そこへすすきの袋からゆっくりと月の光を流し込みますと、とろりと水の中へと沈んでゆきました。
「秋の夜風のように澄みやかに、枯れ葉のように香り高くなれ」
そう唱えながらゆっくりとかき混ぜると、それは神様の命じた通り澄みきった香り高いお酒になりました。一口含みますと、神様はその出来栄えに大変満足されました。
「おおい、利助、利助!」
大きな声で呼びますと、木々を揺らして1人の男が現れました。
「御用でしょうか」
神様は尤もらしく頷きました。
「今宵の酒は大変良いものが出来た。鈴乃へ届けようと思う。瓶を持って参れ」
鈴乃というのは山の麓の村に住む可愛らしい娘で、名前の通り鈴のような声で笑う彼女を神様は大変気に入ってことあるたびに口説いていらっしゃるのでした。上機嫌な神様に、利助は間髪入れずに答えます。
「お言葉ながら、そのようなことをなさいますと、また奥方様のお怒りを買うのではありますまいか」
その言葉を聞いた神様は興を削がれたように口をへの字に曲げました。しかし神様の奥方である草木の女神様は、確かに大変嫉妬深い方でありました。
「奥方様のお怒りが鈴乃殿に向かないとも限りませぬ」
そう利助が念を押しますと、神様は不承不承というように口を開きました。
「では、先に一杯妻に届けることにしよう。その後で残りを持って鈴乃の元に参ろう」

  神様が奥方にお酒を届けにゆく間酒の番を命じられた利助は、お酒の注がれた岩に寄りかかってぼんやりと夜空を見上げておりました。見上げているとは言いましても、利助の目はなにも映してはいません。若くして死んだ利助を哀れがった神様が目の光と引き換えに、神様に仕えるという形でこの世に留まることをお許しになったのでした。
  目の見えない利助にも、豊かなお酒の香りは感じられます。すうっと大きく息を吸い込むと、肺の臓いっぱいにその香りが充ち満ちて利助はうっとりと微笑みました。 
「香りだけでこんなにも素晴らしいのだ。これを口にすれば、どんなに美味いのだろう」
しかし彼の傍にあるお酒は、神様が鈴乃に届ける為のもので、決して彼が口をつけて良いものではありません。利助は深呼吸をしては、諦めきれないように深くため息をつきます。
「こんなに沢山残っているのだ。ひとくちくらい、分からないだろう」
誘惑に負けた利助は小さな柄杓で静かにお酒を掬いました。口元までそれを持っていくと、より強く月の香りが利助の鼻を擽りました。たっぷりと香りを楽しんだ後、利助はそっとお酒を口に含みました。
    月の光が滑らかに舌の上をすべり、喉を通り過ぎると、腹の方へと熱を生みだしながら落ちてゆきました。
「ああ」
利助はそう思わず声を漏らしました。腹の中で柔らかに蠢いて、身体全体が暖かくなります。
「あと一口、それならば良いだろう」
初めの一口に比べて躊躇もなく利助は二口めを飲み干します。あと一杯、あと一杯と飲み進めるうちに、頭もくらりくらりとしてきます。
「月の晩、美味い酒。ああ、良いことだ、良いことだ」
利助はすっかり良い気分になって唄うようにそう呟きました。
  更地だったはずの地面に色とりどりの花が咲きます。紅、橙、藍。それらは光を持たぬ利助の瞳にも映り、月の光が粒となって花々に降り注ぎきらりきらりと揺れ動きます。甘い香りが風に乗って利助を包み込みました。
「良いことだ、良いことだ」
利助は更に呑み進めます。耳に心地よく囀る小鳥が数羽飛び交います。羽の音すら聞こえるような静かな夜ですから、その声はまるで山全体に響くように思われました。
「良いことだ、良いことだ」
ぱたぱたと子供の足音が聞こえ、利助の前で立ち止まりました。
「鈴乃?鈴乃だろう?」
利助は懐かし気に笑いました。鈴乃は彼の幼馴染であったのです。幼き日の鈴乃はそんな利助を見て嬉しそうな顔をしました。
「利助、会えて嬉しいわ」
「俺もだよ」
手を伸ばすと、鈴乃の小さくふっくらとした掌に触れます。けれどそれは次第に大きくてほっそりとした女の手に変わりました。
「鈴乃、お前は俺を置いて大人になってしまったのだなあ」
鈴乃はもう大きな口を開けて笑うことなく、口元だけで美しく微笑みました。
「そうよ。利助が死んでしまうから、私は1人で大人になってしまったわ。お酒を頂戴。それは私のものでしょう?」
鈴乃は差し出されたお酒に口をつけました。唇が潤い、頬に赤みが差すのを、利助ははっきりと見ることができました。
「美味しい」
「そのはずだ。君の為に、神様がお造りになったのだから」
「いいえ、貴方がいるからよ」
神様に申し訳ないと思いつつ、その言葉に利助は天にも昇る気持ちになるのでした。
「今晩貴方に会えたのは、きっとお月様がこんなにも丸くて輝くからなのでしょうね」
鈴のようなその声を聞きながら、利助はゆっくりと瞳を閉じました。

  奥方の小言に引き留められた神様が急いで帰ってきますと、岩の中にはもう一滴もお酒は残っておりませんでした。神様と言えどもこれにはお怒りになって、利助を怒鳴りつけようと声を上げようとしました。しかし岩の横に丸くなってすやすやと眠る利助を見て、その声を飲み込みます。
「ふん、幸せそうな顔をしおって」
酔っ払って赤い顔をした利助はまるで子供のように口元を綻ばせていて、見ているこちらまで幸せな夢を見ているような心もちになるのでした。
  月は変わらず光り澄み渡っております。



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