藥は勿論の事、人生に必要な嗜好品に毒になるような物は幾らもある。
世間の恐怖はどうかするとその毒になることのある物を、根本から無くしてしまおうとして、
必要な物までを遠ざけやうとする。要求が過大になる。出來ない相談になる。
(森鴎外)
“ハイライト独特の焦げた洋酒のような匂い”
と、なんかの小説から拾った活字で口元が淋しくなった。
文学や音楽、映画、芸術に煙草は欠かせないと想うのは
個人的に好きなアイテムだからそこに目がいくのかな。
僕はそこそこの愛煙家と思う、
きっかけは安易だとは思うけど、今ではそこそこの依存性、よく言えば愛着がある。
けれどもそのうち、外人って言葉は差別語だ!鯨を食べるな!牛乳は毒だ、っていうような人たちに
喫煙者は人間じゃないと、叫ばれるのも近い将来と予想できる。
特に苦にもならないけれど。
格好いい煙草のCMとかが見れなくなったのは少し淋しい気もするけれど。
まるで、200年生きてやる と言わんばかりに何かと排除したがる人を見かける、
それもそれで依存性があるんだろう、そのエネルギーは否定しない。
ただ僕は美味しければプラスチックだって食べるかもしれない、
健康の定義はそれぞれ違うだろうし、仮にプラスチックを食べたとしても
道端に食べ残しを捨てたりはしない、勿論路上プラスチックもしないよ。
そんなつまらない話はさておいて、
僕が個人的に通勤途中に気になる人のお話を書いておきたかったんだ、
“オニギリジョン”、僕の中でのあだ名。オダギリジョーじゃないよ、オニギリジョン。
会社は新宿のちょっとした路地の中にあるんだけれど、
彼は時々、その姿を現す。
髪が金色で肌の白い、眼鏡をかけた真面目そうな外人さんなんだけれど
(あえて外人と言う、愛をもって彼を見てるので)
通勤途中の路地の民家の軒下で会うたびに彼はおにぎりを食べている。
個人的に道端で何かを食べるのは見た目が個人的には苦手なんだけれど、
彼のオニギリを食する姿は、なんだか哀愁すら感じる。
ちょっと大人しそうな彼はいつも、コンビニのオニギリを軒下で食べている。
ちょっと妄想で、ロシアの路地でピロシキや、イタリアの路地でピザを自分が食べていたら
なんだかちょっと格好いい気もするけど、オニギリジョンのそのさまは決して恰好よくはない、
少し、いやちょっと淋しい気がしてたまらない。
ひょっとしたら日本の路地でオニギリを食べることが格好いいと思ってるかも知れないから、
勝手な想像は失礼だな、ゴメンね、オニギリジョン。
その路地はいろいろな人が外で何かを食べている、公園や河川敷のような
気持ちのよい場所なんかじゃない、むしろ対照的な新宿の路地裏だ。
人目を避ける意味ではベストポジションなんだろうけれど、個人的にそこいらへんで
何かを食べている人は苦手なんだけど、オニギリジョンだけは別なんだよなー。
今週はまだ見てないけれど、結構気になる、
彼が何のお仕事をしているか、結婚しているんだろうか、どこの国のご出身なんだろうか、
好きなオニギリの具は何なんだろうか・・・・・ 疑問はモクモクと沸いて揺らいで消えていく。
もし、愛がなくただ排除排除とせわしなく動く人が、路上の飲食を禁止!と
プラカードを持って歩き回ったとしても
オニギリジョンは守ってあげたい、大きな愛を持って。
まだ見てない、今週、はたまた来週か、きっとオニギリジョンを見かけるだろう、
個人的にはウインクでもしたくなるくらい気になってるんだけれど、そっとしておいてあげるよ。
取りあえず新宿区の路上オニギリは今のところ大丈夫だしね。
色々な人がいるから面白い。