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4年目の3月11日が近づいて、
私はすごく腹が立っている。


腹が立って立ってしょうがない。


明日で震災から4年。


そりゃ4年も経てば
被災した私自身でさえそうであるように、
誰であっても
あのときの実感も危機感も薄らぐというものだ。


それは人間の摂理として
よくわかっているつもりだし、
忘れることで、薄らいでいくことで
ラクになれるということだってある。



だけどね、
だんだんだんだん
薄っぺらくなっていくのを感じるんだよね。


「震災」と名前のつくイベントは数あるけれど、
その中で本当に被災地に役立ってるものって
いったいどれぐらいあるだろう?


「震災」とか「復興支援」とさえ名前がついていれば
中身はどうでもよくって、
ただお祭り騒ぎをしたいだけだったり
何か知らないけど名前を売りたいだけだったり、
震災から月日が経てば経つほど
そんなものが目についてしかたがない。


3月11日の日に
どこで何をやっても自由だけれど、
ただ騒ぎたいだけだったら
「震災」の言葉を使うのはやめてくれ。


「支援」とうそぶくのはやめてくれ。


ふつうにお祭り騒ぎをやったらいいじゃないか。


もちろんほとんどは
真摯に心を寄せるための集まりなのだと思う。


だけどそうじゃないお祭りに
「震災」という名前を使われると、
すごく悲しくなってしまう。







この時期には
「震災のときに起こった美談」なんてものが
ネットに飛び交うけれど、
はっきり言って「美談」なんてどこにもない。


みんな生きるか死ぬかの
ギリギリの選択をするしかなかったんだよ。


4年経ってもまだ
「生き残ったこと」で自分を責めてる人がたくさんいるの。


「私だけ生き残ってごめんなさい」。


その思いから抜けられない人がまだまだ大勢いるんだよ。


美談なんていう実体のない幻想に引っかかって
うっすいナミダなんか流してるヒマがあったら、
とっとと目を覚まして
1ミリでも自分にできることをやってほしい。




あれから何が変わっただろうか?


4年経っても私はこんなに怒っていて、
4年経っても家の外は更地の風景だらけだ。


だけどそれでも私は生きてくよ。


みんなみんな生きていく。











震災を体験していようがしていなかろうが。


怒っていようが笑っていようが。


今なにを経験していようが。





みんな生きろ!

なまなましい、どうにもならない自分を生きていけ!







煮えくり返りそうに怒ったまま迎える
4年目の3月11日の前日に。








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熊谷圭子ウェブサイト