あの角をまがったところには
魚のにおいでむせかえるような水産加工場があって
そのかいわいのおじさんおばさんたちは
いい年の大人になった私にいつでも
「けいちゃん!」と
子どものころのままの呼び名で声をかけてきた


結婚してから
なかなか話す時間を持てずにいた友人とは

「今度ゆっくりお茶しよう」

と約束したばっかりだったし


あすも今日と同じように起きて
服に着替えてごはんを食べ、
仕事をするものだと
心の底から信じきっていたのに


あの日のできごとが
それらを跡形もなくつぶし
手の届かないはるか彼方に流し去っていった


だれの記憶にもないほどのすさまじさで





思うに
私たちはあのときいちど死んだのだ


大切なものかけがえのないもの
大事だと知らなかっただけでほんとうは宝物だったもの


それらすべてが一瞬で奪われたとき
私たちの心は死んで体だけがここに残ってしまった




あれからの5年
だれもが
泣き出したくなる自分を
超人的な努力でだまらせたりだましたりして
ここまでやってきたけれど
しかばねのままでいるのはもう限界


血の通ったにんげんが
心をなくしたまま体だけで生きるなんて
できるわけもなく


月日が傷を癒してくれることもあるかもしれないが
月日なんかじゃ癒されない傷だってある


それなのに痛くないふりをしていたら
痛いかどうかすらわからなくなってしまうよ



まわりのことなんかぶっちぎって
自分のためだけに
身も世もなく
泣いて泣いて泣きまくれ


この5年というもの
私たちはがんばることに必死すぎて


あの人のほうが大変だからと
助けてくれた人への感謝が先だと

自分を
あとへあとへとおいやって

あまりにも涙をせきとめてきたのではなかったか



怒りをぶちまけるような強烈さで泣きわめくことの
何がわるい?


赤ん坊がこの世に生まれ出るときのように
ありったけの息で
大地が裂けるような声を出し
枯れるほどの涙を流しながら
こう宣言するのだ


わたしは確かにここに生きている!と


どんなになさけなくみっともなくても
破壊をこえ絶望をこえて5年の歳月を生き抜き
悲しみとともに
今ここにこうして立っているのだと


そうしてはじめて
しかばねだったわたしたちのからだは
ため息と涙になって出ていった
空気と水とをとりもどし

太陽のもとでふたたび息をしはじめる










            2016年3月11日 6:00am 気仙沼の自宅から