朗読用物語5.『ティッシュ配りの青年』 | enjoy Clover

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朗読用物語5.『ティッシュ配りの青年』


  右と左のポケットには、それぞれ別のポケットティッシュが入っていた。片方はティッシュ配りのバイトが始まる前にもらったキャバクラのティッシュ。もう片方は、今日自分が配りきれなかったコンタクトレンズ専門店のポケットティッシュ。


  青年が田舎から上京してきて短期や日雇いのアルバイトで食いつなぐようになってから、もうすぐ8ヶ月になる。具体的な目標があって上京したわけではないが、都会に出れば何かが動き出すと思っていた。テレビドラマの主人公のように、何か運命的な出会いがあり自分の人生が変わると思っていた。本当はそんなことはありえないと分かっていながら、今でも惰性でこうしてフリーター生活を続けている。


「今日のバイトも全然楽しくなかったなぁ。」


  青年は帰りの電車の中でいつもその日の仕事の愚痴をこぼす。誰に聞いてもらうでもなく、自分自身の頭の中で。声には出さずに。


「なんでみんな受け取ってくれないんだろう?ティッシュなんてあって困るものじゃないからもらえばいいのに。無料なんだしさ。せっかく今日は頑張って声まで張って配ったのに、受け取ってくれる人なんてほとんどいない。」


 思えば思うほど、声にならない愚痴をこぼせばこぼすほど青年は自分を惨めに感じた。どんなに声を出してもティッシュを受け取ってもらえない自分の姿が、気の毒なほど惨めに思える。これじゃまるで、マッチ売りの少女だ。


「マッチ売りの少女か!こりゃいいや!傑作だ!僕の場合だと、『ティッシュ配りの少年』てとこかな。いや…」


  青年は気付いていた。自分がもう少年と呼ばれる年ではないことに。同級生のほとんどが会社に就職して立派に社会人をやっている。結婚したやつもいるし、子どもが生まれたやつだっている。


「くだらない。何がマッチ売りの少女だよ。よく考えたら全然似てないじゃないか。あっちはマッチを売ることに必死だけど、僕はただのバイトだ。ティッシュを受け取ってもらえなくたって、時給で金は手に入る。あっちはマッチが売れなければ死ぬほど貧乏だけど、僕にはまだ貯金もあるし、いざとなったら帰れる実家だってある。」


  自分とマッチ売りの少女を比較して、青年はますます自分が惨めになるのを感じた。どう考えても、マッチ売りの少女よりも自分の方がはるかに楽な環境にある。マッチ売りの少女の人生は過酷だけど、だからこそ悲劇のヒロインになっている。どんなに悲惨な人生でも、彼女は自分の物語の主役として生きたのだ。それに比べて自分の人生は少しも面白くなかった。こんな男が主役のドラマなんて、きっと誰も見ないだろう。


「はぁ…。」


  ため息をついたのは、青年の前に座っている少女だった。高校生くらいだろうか?まだ少女といっても許される年齢の彼女は、その目に涙を浮かべている。ため息と一緒に心の箍が外れたのか、その涙は少女の頬を伝っていった。それがさらに引き金となり、今度は蛇口の緩んだ水道のように少女の目から涙が流れていく。少女は鼻をすすりながら持っていたティッシュで涙を拭くが、ティッシュはすぐに使い切ってしまった。


  失恋でもしたのだろうか?それとも、友達とケンカでもしたのだろうか?いずれにせよ、今日一日の間にこの少女に大なり小なり何か悲劇があったのだろう。自分がなんのドラマにもならないティッシュ配りをして潰してしまった今日一日の間に。青年は、少女のことを少し羨ましく思った。


  ティッシュがなくなっても涙の止まらない少女を見て、青年の心は急にそわそわし始めた。もしかしたら、自分がこの少女に何かしてあげられるかもしれない。感謝してもらいたいとは思わなかった。その先に何かあるとも思わなかった。ただ今は、何のドラマも起きなかった今日を取り戻したい。このヒロインの物語に、一瞬でも参加できるかもしれない。単純な動機だが、青年を動かすには十分だった。青年は右のポケットからティッシュを取り出すと、少女の前に素早く差し出して、小さな声で言った。


「あの、よかったら、これ、どうぞ。」


  少女は驚いた顔で青年を見ると、無理矢理笑顔を作って黙ったまま小さくお辞儀をした。今日一日声を張ってもほとんど受け取ってもらえなかったティッシュは、あっさり少女の手の中に収まっていった。心臓の鼓動が早くなった青年はすぐに少女から視線を外して、窓の外を見続けた。これ以上のことはもう何もできない。少女にティッシュを渡せただけでも、今日の青年にとっては大冒険だった。


  電車が次の駅へ着くと、少女はもう一度青年にお辞儀をしてあっさり電車から降りて行った。きっとあの少女は、三日もすれば青年のことなんか忘れてしまうだろう。それでも青年には十分だった。今日は満足感があった。きっと、あの少女の今日一日の名脇役トップ10くらいには入っているだろう。


  少女が電車を降りた後、青年はあることに気付き、くだらないことが気になった。さっき自分が少女に渡したティッシュは、いったい何のティッシュだったのだろうか?コンタクトレンズ専門店のティッシュならいいが、キャバクラのティッシュだったら少しかっこ悪い。青年は左のポケットに入っているティッシュを確認して、さっきの少女とは違うため息を付いた。青年が顔を上げて窓の外を見ると、そこにはティッシュのように真っ白な雪が降り始めていた。

(完)

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