朗読用物語7.『ホワイトライン (ずっといつもバージョン)』 | enjoy Clover

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朗読用物語7.『ホワイトライン (ずっといつもバージョン)』


  「ウドの大木」。体が大きいだけで大した仕事のできない落ちこぼれ社員である自分が、影でそう呼ばれていることは知っていた。上司からはもちろん、同僚からも、自分の部下からも。そして誰よりもそう感じているのは、ほかならぬ自分自身だった。入社してから20年以上経った今もいまいち会社に馴染めない。やる気も出ない。そもそも自分がこの会社に入れたのだって、「面接官好みの体育会系出身だったから」という理由だけだろう。性格や能力はさておき、この中年男は一応「元ラガーマン」だった。今ではボールを持って走るどころか、地面を見ながら家と会社を行ったり来たりするばかりの毎日だが…。体が大きいだけの冴えない中年は、今夜も地面を見つめながら家への帰り道を歩いている。


うつむきながら歩くと、道路の白線が目に入る。思えば、自分が人生の中で一番輝いていた時も毎日グラウンドの白線を追いかけていた。

「ゴールラインを超えるまでは前だけ見てバカみたいに走れ!」

学生時代にラグビー部の監督から散々言われた言葉だ。怒ると今の上司の何倍も怖かったが、これまで自分が出逢ってきた人の中で、唯一尊敬できる大人だった。あの監督の言葉があったからこそ、こんな自分でもラグビーに本気になれた。

「前を見て走ってればどんなバカでも何かしらの結果が出る。お前ら、悩み事を抱えてウジウジしてる暇があったら、とりあえず前見て走れ。」

これも監督の口癖だった。あの頃は何も考えずにラグビーに打ち込んでいられた。クロスバーの下に見える白線に向かって全力疾走していられた。監督が不祥事を起こして突然いなくなってしまったあの日までは。


目でたどっていた道路の白線が急に途切れた。この時期やたらと多い道路工事だ。ずっと下を向きながら歩いていたから、近くに来るまで気付かなかった。

「あの、申し訳ないんですけど、この道は今、通れないんですよ。あっちから回ってもらってもいいですか?」

そう教えてくれた作業員のこの男は、自分より少し若いくらいだろうか?それにしてもやけに爽やかな男だ。こんな時間に働いているのにも関わらず、なんというか、まるでテレビで見る高校球児のようにキラキラして見える。やはり「健全な肉体には健全な魂が宿る。」というのは本当なのだろう。肉体労働者のこの爽やかな作業員は、体格もしっかりしている。監督がいなくなってラグビーに本気になれなくなったあの日まで、自分も他人からそう見られていたのだろうか。


あれは不祥事ではなかったと、今でもそう思っている。きっと自分だけではなく、あの事情を知っている者ならおそらく全員。監督が殴った学生は、ラグビー部員ではなかった。大学職員ではなく外部講師として来ていた監督にとっては、部員以外の学生に手を挙げたらそれは指導ではなく暴力事件だ。例えその学生が、監督の目の前でシンナーを吸おうとしていたとしても。事が大きくなるのを恐れた大学側は、学生の言い分を通して外部講師の暴力として事件を処理した。監督は何も反論せずに、学生を殴ったという事実だけを認めた。そうして監督は突然いなくなって、その後どこで何をしているかは誰も知らない。


「あの…、すみません。今ここは通行止めになっていまして…。聞こえてますか?」

また完全に自分の世界に入っていた。悪い癖だ。だからきっと自分はいつまで経っても仕事ができないんだろう。

「あ、すみません。ちょっと地面を見ながら歩いてたから気付かなくて…。」

中年はあまり申し訳なさの伝わらないような返事をした。すると作業員は少し表情を緩めて答えた。

「何をやってもやる気が出なかったりして、ついつい下ばかり見ちゃう時ってありますよね。あ、こんなこと言ってごめんなさい。でも、僕がちょっと前までそうでしたから。」

あくまで爽やかなままでそう言った作業員の言葉を聞いて、中年はつられるように質問した。

「今は違うんですか?」

作業員は嬉しそうな顔で語り始めた。

「前の会社を辞めて仕方なく始めた工事現場の仕事でやる気も出ないまま作業してたら、現場監督に言われたんです。『やる気がないなら走って来い。前を向いて走ってればどんなバカでも何かしらの結果が出る。悩み事を抱えてウジウジしてる暇があったらとりあえず前見て走れ。』って。」

え?その言葉はまさか…。中年の固まった表情に気づかないまま、作業員は続けた。

「最初は『なんだそれ?』て思ったんですけど、でもなぜだか心のどこかでその人のその言葉がグッときて、次の日から毎朝ジョギングをするようになったんです。僕、今まで誰かのことを尊敬したことなんてなかったのに、なぜだかその人の言葉はスーっと胸に入ってきて。そしたら、監督の言ったとおりでした。少しずつでも身体を動かし出すと、気持ちも一緒に元気になってきて、仕事も楽しくなってきたんです。」

「それで、その現場監督さんは今どこに?」

違う人かもしれない。そんなの誰にでも思いつく言葉だ。他人かもしれない。だけど聞かずにはいられなかった。

「もう年齢も年齢なので現場は引退しちゃいました。今はボランティアで少年ラグビーの監督をやってるみたいですよ。ああいう人って、どこに行ってもやっぱり監督なんですね。」

可笑しそうに笑う作業員の前で、中年も一緒になって「本当ですね」と笑った。中年の言った「本当」に込められた意味は、きっとこの作業員には分からないだろう。



翌朝、中年はいつもより少し早起きをした。軽く身支度をして、朝食を食べるよりも先に玄関をドアを開ける。会社に行く時のスーツではなく、捨てられずにとっておいた学生時代のジャージを着て。

「前を向いて走ってればどんなバカでも何かしらの結果が出る。」

小さくそう呟いて深呼吸をすると、中年は大きな体の割には軽快なリズムで走りだした。顔を上げたその視線の先には、まだ淡い色をした青空の中に真っ白な雲が一本の帯になって浮かんでいた。

(完)

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