朗読用物語8.『ひとえの桜色』 | enjoy Clover

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朗読用物語8.『ひとえの桜色』


 もうすぐ真奈美が浩美の年を越える。浩美が迎えることのできなかった10歳の誕生日を真奈美は迎える。真奈美が私のお腹の中にいることが分かったのは、事故が起こった後のことだった。主人と娘の浩美に先立たれた私にとって、真奈美は私の唯一の希望だった。女手一つでこの子を幸せにできるかなんて本当は自信がなかったけど、どうしても産みたかった。そうでもしないと私、あの時は一人ぼっちで生きていけないと思ったの。ねえ、真奈美、生まれてよかったって思ってる?


 パートから帰ったら、真奈美が落ち込んでいた。真奈美のまわりには、何枚もの描きかけの絵と絵の具道具が散らばっている。「どうしたの」と聞いてみたら、美術の時間に絵を描くことになったけど、授業時間では完成させられずに宿題になったとのこと。そういえば、浩美も私に似て美術が苦手だったな。負けず嫌いの浩美も、絵の宿題だけは適当に完成させちゃってたっけ。私も学校で絵を描くときはいつもそうしてたから、やっぱり血は争えないと思う。


「真奈美、全部を完璧に描かなくても『自分がこれでいい』て思ったら完成にしちゃってもいいんだよ。」


「うん…でも、もうちょっと頑張ってみる。」


真面目な真奈美は自分の納得できる絵が描けるまで何度でも描き直すのだろうか。それとも、昔の私や浩美のようにどこかで妥協して絵を完成させるのだろうか。


 「ねえ、真奈美。今度の日曜日、一緒に買い物行こっか?なんでも好きな服買ってあげるよ。」


 他の家庭よりも遅い晩御飯の時に私がそう言った理由は、真奈美が絵のことで落ち込んでいたからというだけではない。真奈美の着る服は、ほとんどが浩美からのお下がりだった。次から次へと新しい服をせがんでいた浩美とは違って、真奈美は我が家の経済状況を理解してくれているのか一度もわがままを言わずにいてくれた。


 「え?ホントに?でも、お金…大丈夫?まだお姉ちゃんの服、いっぱい残ってるよ。」


 活発でわがままだった浩美とは違って、真奈美はおとなしくて遠慮する子に育った。なんにでも積極的だった浩美とは違い、真奈美は苦手なことも多かった。だから人に遠慮するようになったのだろうか?それとも人に遠慮するから苦手なことが増えたのだろうか?浩美が得意だった鉄棒の逆上がりも、真奈美はまだできない。


 「子どもはそんなこと気にしなくていいの。ほら、もうすぐ真奈美の誕生日でしょ。」


 そう言うと、やっと真奈美は嬉しそうな顔になって声を弾ませた。


「やったー!ありがとう!じゃあ今度の日曜日、約束だよ!」


 こんな時の真奈美の表情は本当に浩美によく似ている。そう思うのは私が真奈美に浩美を重ねて見ているからだろうか?ねえ浩美、もしあなたが生きていたら、どんなお姉ちゃんになったんだろうね。真奈美とケンカしたり、真奈美に勉強を教えてあげたり、一緒に逆上がりの練習してくれるお姉ちゃんになってたのかな?そうしたら、真奈美も今ごろ鉄棒が好きになってたのかな?




 「ただいまー!ねえお母さん、見て見て!」


 真奈美が元気よく玄関のドアを開けて帰ってきた。浩美もいつもこんな風に帰ってきてたっけ。持って行ったはずの手提げカバンもどこかに忘れて手ぶらで帰ってくることもよくあった。だけど今日の真奈美の右手には、持って行かせた覚えのない丸まった画用紙が握られている。


「この前の宿題の絵ね、先生にとっても褒められちゃった。今度、クラスの代表としてコンクールに出してもらえるんだよ!」


 真奈美は「ほら、これ!」と言って私の方に画用紙を広げて、何度も描き直してやっと完成した絵を見せてくれた。「すごーい。偉かったねー。真奈美、頑張ったねー。」そんな言葉をかけてあげようと思ったのに、目の前に飛び込んできた景色を見て私は思わず出かかっていた言葉を飲み込んだ。


 なんて、きれいな絵なんだろう。真奈美が描いたのは、我が家の窓から見える桜の景色。だけど真奈美が描いた絵には、実際の窓からの景色には見えない、もちろん写真にも映らない不思議な魅力があった。こんな桜、私は見たことがない。


 「私、桜の色が好きだから、この絵はちょっとがんばっちゃった。私、これなら得意かも!」


 ニカっと前歯を出して笑う真奈美を見て、私は涙を堪えきれなくなった。真奈美、すごいね。あなた、生まれてくる前から今までずっとお母さんのこと支えてきたんだよ。お母さん、自分の生きがいのためにあなたを生んだんだよ。それなのに、あなたはこんなに頑張って、お母さんにも、お姉ちゃんにもできなかったことができるようになって、自分で得意なこと見つけて、それで、こんなに人を感動させるなんて。


ねえ、浩美。もうすぐ真奈美があなたの年を越すよ。お母さんずっと「浩美が生きられなかった時間を真奈美が生きてくれる」て思ってた。「浩美が見られなかったものを、これから真奈美が見ていくんだ」って。だけど、お母さん間違ってたね。真奈美には、もうずっと前から、真奈美だけの景色が見えていたんだね。浩美、生まれてきてくれてありがとう。9年と10ヶ月生きてくれてありがとう。お母さん、これから真奈美と二人で頑張って生きていくから、お母さんもっと頑張るから…だから浩美、空から私たちを見守っててね。


 「じゃあ今度の日曜日は、桜色のお洋服探しに行こっか。」


 涙を流しながら笑顔を作って、それだけやっと言えた。突然泣き出した私を心配しながらも「ありがとう」とはにかむ真奈美の顔に、もう浩美の姿は重ならなかった。

(完)

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