朗読用物語9.『ただいま おかえり』(原作 斉藤省悟「ただいまおかえり」) | enjoy Clover

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朗読用物語9.『ただいま おかえり』(原作 斉藤省悟「ただいまおかえり」)


今の時代に生まれてよかったとつくづく思うのは今みたいな夕方の時間だ。インターネットでちょっと検索するだけで、だいたいどんな料理のレシピも調べることができる。何を作るか迷ったときは、冷蔵庫の中に残っている食材の名前で、例えば「にんじん たまねぎ レシピ」と入れてクリックするだけで実に1万種類近くの料理のレシピがヒットする。今夜のおかずは、この「にんじん、たまねぎ、シーチキンのふんわり卵とじ」。これを作ってみよう。卵は一昨日特売で買ったのが残ってるし、何より作るのが簡単そうだ。


さっそく今晩のおかずに必要なシーチキンを買いに出かける。ついでに明日のおかずにと安い食材を買っておく…というような賢い買い物はまだできない。もしかしたら買い物に行かなくてもシーチキン抜きで何か美味しいものが作れるのかもしれない。だけど、今日はもう「にんじん、たまねぎ、シーチキンのふんわり卵とじ」を作ると決めたのだ。


世の中の主婦は、もっと上手に買い物するんだろうな。きっと普通の女子は、小さい頃からお母さんのお手伝いをして買い物や料理を覚えていくんだろう。私が子供の頃にテーブルの上に並んでいたのは、暖かい料理ではなく、千円札と「ごはん代」と書かれたメモだけだった。そんな普通の家庭を知らない私に、普通の幸せを教えてくれたのが彼だった。こんな私でも、仕事で疲れた彼の心と体を少しでも癒すことができるのならば、苦手なはずの料理だって作るのが楽しくなる。




 自分のミスが原因での残業だったので、誰にも文句は言えない。むしろ、あそこからよくこの短時間で対応できたものだと、逆に今日の自分を褒めてやりたい。この会社で働き始めて3年。仕事のやり方もだいぶ慣れてきたと思う。…が、上司や先輩たちから見たら3年ではまだまだ若造だ。学校では3年生ともなると上級生だが、社会人の世界ではまだまだ新人らしい。社会人というのはいったい何十年生まであるのだろうか。先の長すぎる未来を思いながら、俺は日本一痴漢と満員電車の多い車両に乗り込んだ。


 ふと窓を見ると、疲れた顔をしたスーツ姿のおじさんたちの中にすっかり馴染んでしまっている自分が見えた。信じたくはないが、これが今の自分の姿なのか。子どもの頃に絶対になりたくなかった父親の面影がそこにはあった。冴えないサラリーマンだと心のどこかで馬鹿にしていたけど、今になってようやく親父の凄さが分かった。決して裕福ではなく普通の家庭だったけど、その普通を築くために親父は何十年もこんな電車に揺られながら頑張ってたんだな。世の中の普通の家庭を支えている父親たち、今では心から尊敬しています。マジで。だからこんな満員電車の中でそんなに押してこないで。そして顔に息をかけないで。


 「駅に着いた。遅くなったから急いで帰るよ。」歴史に名は残さずとも人知れず毎日戦っている企業戦士たちの息が顔にかかるような電車から降りたら、すぐに彼女にメールを送る。最寄駅から徒歩25分。お世辞にも便利とは言えない場所にある古いアパートで、彼女は俺が家に着く時間を計算して出来たての夕食を用意してくれる。今日みたいに遅くなる日があるから、「作り置きしたものをレンジでチンすればいい」と言ったこともあるが、彼女はいつも必ず俺の帰りを待っていてくれる。「夜ご飯は絶対出来立てを一緒に食べる」というのが彼女のポリシーだ。決して気の強いわけではない彼女だが、こういうところは頑固なほど譲らない。きっと子どもが生まれたら、完全に俺が尻に敷かれることになるだろうな。


 あ。アパートまで残り5分。帰り道の坂を登り始めたところで肝心なことを思い出した。子ども作るよりも先に結婚しなきゃ。ずっと考えてはいたことだけど、毎日仕事から帰ってからの時間が幸せ過ぎていつも気が付けば忘れてしまってた。今のままでも十分幸せだけど、あいつはどう思ってるんだろう?やっぱり俺から話を切り出すのを待ってるよな。よし!思い立ったら吉日。さっそく今日にでも男らしく…。いや、ちょっと待てよ。結婚の話ってこんな普通の日に家で飯食いながら言っていいものなのか?それともロマンチックなプロポーズをするのが普通なのか?こないだ結婚した同期のあいつは確か…いや、あれは参考にならないな。もっと普通の…。いや、ちょっと待て。そもそも普通って何だ?




 彼からのメールが届いてから20分。今日は急いで帰るとのことなので、もうすぐ家に着くころのはず。仕事から帰ってきた彼に「おかえり」を言う瞬間が、今の私にとって一番の幸せだ。私が子供の時、お母さんから言ってもらえなかった言葉。お母さんに言ってもらいたかった言葉。


 お母さん、かぁ。私も、きっといつかお母さんになる。いや、絶対なりたい。一緒に買い物に行ったり、料理を教えてあげたり、一緒に彼の帰りを待ってみんなでご飯を食べられるような家族が欲しい。なんだか夢みたいだ。私にも、そんな幸せな家庭を持てるなんて。


「でも…今はまだまだ修行中だな。」ふんわり卵とじにならなかったただの「にんじん、たまねぎ、シーチキン、たまご炒め」を見つめながら呟いた。今のまんまじゃ、子供に料理を教えるどころじゃないもんね。今は、今の幸せで十分満足。仕事から帰ってきた彼に「おかえり」と言ってあげられること。彼の「ただいま」が聞けること。本当に小さなことかもしれないけど、その小さな一言が今の私にとっての最高の幸せ。そしてもうすぐ、その幸せな瞬間がやってくる。




 結局、何もいい考えが浮かばないうちに家の前までたどり着いてしまった。よし!とりあえず今日はこのまま家に帰ろう。彼女の作ってくれたご飯を食べて、それからゆっくりしよう。俺は今日は一日仕事を頑張った。彼女は料理を頑張った。それでいいじゃないか。今はこれ以上彼女を待たせるわけにはいかない。開き直った俺は勢いよく玄関のドアを開けた。「ただいま」と「おかえり」が交互に聞こえたあとで、普通の、だけど幸せな夜ご飯の時間が始まる。

(完)

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【原作楽曲「ただいま おかえり」(作詞・作曲・唄・斉藤省悟)】

窓際のポトスの隙間から夕日影 そろそろ夕食の材料を買いに行かなくちゃ
作るのはまだ手慣れてはいないけど なにかしてあげられる この瞬間がうれしい

少し予算を抑えてみたよ でも栄養には気をつけたよ
慣れぬ手つきで生みだされた愛情が彩られていく

「ただいま」と響く頃 この食卓に料理が並ぶ
疲れたその心と体 どうぞ休めてね
いつかこのテーブルの上に並ぶお皿の数が
ひとつ ふたつと増えて にぎやかになれたらいいのにな

いつもより遅れて やっと会社を出る 埼京線はいつだって満員で嫌だな
窓にうつる老けたスーツ姿 これが僕なの 変わってしまってごめんなさい

遅くなったよ もうすぐ着くよ 駅に着いたら 急いで帰るよ
この坂道を登り切れば 古いアパートが見えてくる

「おかえり」と響く頃 僕に太陽が降り注ぐ
疲れたこの心と体の安らげる場所
いつの日か この家のドアを開いたそのあとに
「今日、こんなことあったよ!」 幼い声を拾うのだろうか

鐘が鳴り響く頃 新しい季節が始まる ずっと笑い合える日々が続くといいね
いつか君の右手と僕の左手の間に 大切な命が繋がれていますように