まだ五年に満たない期間ながら岩槻(さいたま市岩槻区)に住む者として、そして反骨の戦国武将・太田資正(三楽斎)を愛する者として、岩槻城には愛着があります。
しかし、今日の岩槻城、岩槻城址は、お世辞にも魅力的とは言えない状況です。

いまの岩槻城址は、なぜ魅力が無いのか。
今回、その理由を改めて考えてみました。

※ 勢いと気持ち(愛)で書いている文章ですので、まったく論理的ではありません(笑)。論理の飛躍あり、思い込みの一般化あり・・・


1.岩槻城址はなぜ魅力が無いのか

(1)少ない遺構
岩槻城址の問題点は、まず、遺された遺構が少ないことです。
ただでさえ、石垣もなく、天守閣もない地味な城であることに加え、かつての本丸周辺は明治維新後に開発され、今ではスーパーマーケットと住宅街の下敷きです。往時を偲ばせるものは何も遺されていません。城の南を守った郭(曲輪)である「新曲輪」「鍛冶曲輪」は、往時の土塁・空堀を相当程度遺していますが、その城としての機能を訪問者に実感させ、感動させる形仕掛けが不十分です。

(2)より致命的なのはストーリーの欠如
ただし、私はこうしたハード面での貧弱さは、岩槻城址の魅力の無さの主因ではないと感じてます。

もちろん、城の遺構が遺っているのに越したことはありません。本丸や三の丸の木造建築の一部でも残っていたら、あるいはかつての本丸周辺の濠が、今日での水を湛えた水郷公園として残っていたら、それだけでの岩槻城址は今より魅力的だったことでしょう。

しかし、遺構が残っていない城址であっても、その城に魅力的な“ストーリー”があれば、状況は変わるものです。
地元の人々が誇りとする“ストーリー”ががあれば、城址はもっと大切にされ、訪れる人々のために魅力的に見せようとする努力が自然に生まれます。また、地元外の歴史愛好家にとっても、その城に魅力的な“ストーリー”があれば、例え遺構がほとんど残されていなくても、むしろそこに諸行無常を感じて楽しむことができます。

城を彩る“ストーリー”とは言うまでもなく、戦国の英雄達が覇を競った華やかな合戦譚や、その周囲の悲喜劇です。
そのストーリー面の弱さが、今日の岩槻城の最大の弱点になっています。

私に言わせれば、上杉謙信が訪れ、北条氏康が攻め(天文年間永禄年間の二回)、豊臣秀吉が萩を愛でた岩槻城は、ストーリー豊富な城です。
謙信の片腕として、小田原北条氏を向こうに回した大勝負を繰り広げた太田資正(三楽斎)が、岩槻城主であったことも併せて語れば、この城を巡る戦国合戦譚は、まこと華やかなものになるのです。
ところが・・・岩槻城址の案内板には、こうした岩槻城を巡る戦国合戦譚ほとんど書かれていません。書かれているのは、築城者に関する両論併記(後述します)と、秀吉の小田原攻めの際の北条側の城としての攻防戦わずかな記述のみ。
小田原北条氏を相手に大立ち回りを演じた岩槻城主・太田資正の活躍や、岩槻城をあるいは訪ね、あるいは攻めた謙信、氏康、秀吉らに想いを馳せることができるのは、よっぽどの戦国マニアに限定されてしまいます。
いや、秀吉が宇都宮仕置の後に岩槻城に滞在し、萩の花を鑑賞して和歌を詠んだことは、“よっほどの戦国マニア”にすら知られていないかもしれません。

(3)なぜストーリーが弱いのか
なぜ、岩槻城は“ストーリー”が弱いのか。
それはかつて岩槻の人々が親しみ、誇りとした“ストーリー”が存在していたにも関わらず、近年それが陳腐化したため。そして、代わりとなるストーリーが語られていないためです。

かつて岩槻の人々が親しみ、誇りとした“ストーリー”とは何か。
その“ストーリー”は、謙信の片腕として小田原北条氏と大勝負を演じ、豊臣秀吉をもその智で驚嘆させた岩槻城主・太田資正の活躍すら、二軍に押し留めてきたもの。おかげで、岩槻民さえ太田資正(三楽斎)の名を知らないはめになるほど優先的に語られてきた程のものです。
何かと問われれば、それは、「岩槻城はかの天下無双の名将・太田道灌によって築かれた」という築城伝承です。

しかし、この輝かしい築城伝説は(以前にも語りましたが)いまや陳腐化の極地にあります。
太田道灌の知名度が戦後になってどんどん低下していったため・・・だけではありません。
太田道灌(あるいはその父道真)築城説が、約二十年前に発掘された一次史料によって否定されたことが、このストーリーに頼る岩槻城の魅力を根底から揺るがしてしまったのです。

【参考】
岩槻城太田氏築城説を否定した、黒田基樹氏の学説は↓に詳しくまとめられています。
扇谷上杉氏と太田道潅 (岩田選書「地域の中世」)/岩田書院
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その上、このストーリーが力を失った後の対応も問題でした。永遠の二番手であった太田資正と謙信/氏康/秀吉の物語が代わりに前面に押し出されることはありませんでした。永遠の二番手の期間が永すぎたために、地元民からも忘れられてしまったのでしょうか。
いや、太田資正の物語でなくともよいのです。太田道灌築城説に代わる誇れる岩槻城ストーリーを、岩槻民は掘り出し、語るべきでした。しかし残念ながら、そうした動きは無かったのです。

今日の岩槻城址公園の説明板は、太田道灌築城説を旧来説として語り、“しかし今では忍(行田)の成田氏築城説が有力”と、力なく記しています。
岩槻城は太田道灌によって築かれた」というストーリーだけを誇りにしてきた岩槻民が、その太田氏築城説を否定されてしまえば、後には何も残りません。
残ったのは、地元自慢の熱意や愛の欠片も感じられない無気力な成田氏築城説の説明文のみ。あの説明板の自信を喪失して呆然としたような解説文に、岩槻の人々の岩槻城址に対する失意と絶望を感じるのは、私だけでは無いはずです。(もしかして、私だけですかね?)


2.問題の根源は、岩槻城成田氏築城説にあり

(1)よりによって成田氏か!

ここから一歩踏み込みます。

半分冗談、半分本気で言えば、今日、岩槻城址に魅力が無い理由の大半は、太田道灌築城説の崩壊と、新定説となった成田氏築城説にあると、私は考えています。

岩槻城成田氏築城説の登場が、岩槻の人々の心から、町の象徴・プライドとしての岩槻城を奪い取りました。その結果、地元からの愛を失った岩槻城址(少なくとも私には、城址公園が公園として愛されているとは感じても、城址として愛されているとは感じません)は、外部からの訪問者にとっても無気力で魅力に欠けた場所として今日まで魅力向上のてこ入れをされることもありませんでした。そのまま、ダラダラと運営されるに至っています。

私の体感から言えば、岩槻城成田氏築城説の問題点は、成田氏が太田道灌に比べて更に知名度が低いこと・・・ではありません。
最も問題なのは、成田氏が、岩槻の人々にとって全く親しみが湧かない存在であることです。岩槻の人々にとって、成田氏は「他所の殿様」(行田の殿様)。いやそれどころか、劣等感と優越感が相半ばする複雑な感情を抱く相手・忍城(行田市)の殿様なのです。

岩槻の人々の誇りは、江戸時代、埼玉県の領域内で残された城が、
・川越の川越城
・忍(行田)の忍城
・岩槻の岩槻城
の三城のみであったこと(他の戦国時代の城は廃城になりました)。その中でも、「岩槻城は川越城と共に太田道灌に築かれた城」との認識によって、忍城より岩槻城が一段上の存在である(と信じてきた)ことに依っています。(岩槻の人々は口に出してそうは言いませんが(笑))

しかし、優越感が劣等感の裏返しであるのはよくあること。
岩槻の人々、特に地元の城・岩槻城を愛してきた人々は、忍城に対して独特の感情を持っています。

そもそも、岩槻城と忍城は、沼地に立つ小台地に築かれたという点で、とてもよく似た城。沼に浮かぶような姿を指して、共に「浮城」と呼ばれた城です。しかし、戦国の実戦での戦績には大きな差があるのです。
秀吉の小田原攻めの際に、岩槻城が数日で落ちてしまったのに対して、忍城は難攻不落を誇りました。関東の北条側の支城が次々落ちていく中で、忍城だけが小田原城落城以降も堅守を続け、実質的に上方勢を跳ね返したことはよく知られています(小説・映画『のぼうの城』の題材になりました)

【参考】のぼうの城(小説・映画)
のぼうの城/小学館
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のぼうの城 通常版 [DVD]/Happinet(SB)(D)
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同じ「浮城」でありながら、この戦績の差は、岩槻城下の人々には、秘かな劣等感を与えています。
江戸時代末期に書かれた『岩槻巷談』が、関東有数の堅城として岩槻城を誇る書き出しから始まることは、その劣等感が、江戸時代の岩槻藩時代に遡ることの証左だと私には思えます。
個人の経験としても、岩槻に越して間もない頃に、観光ボランティアの方に「へぇ、岩槻城も秀吉勢に攻められたんですか。どのくらい持ちこたえたんですか?」と無邪気に尋ねてしまった時の反応は、今でも忘れられません。「・・・数日だったみたいだね。忍城とは違ってね」と観光ボランティアの方が言いにくそうに答えた時、自分が聞くべきではないことを聞いてしまったことを悟りました。

【参考】
『岩槻巷談』は↓に収録されています。
国立国会図書館デジタルコレクション『埼玉叢書第2巻』

岩槻の人々にとって、忍(行田)の忍城への思いは複雑です。
それ故、「太田道灌築城説」はその根深く劣等を払拭する光として、地元には無くてはならないものだったのです。

こう説明してくれば、岩槻城成田氏築城説が岩槻にもたらした絶望的なインパクトも理解できます。
岩槻民にしてみれば、「よりによって成田氏か・・・」という想いだったに違いありません。岩槻城成田氏築城説は、岩槻の人々の岩槻城への愛を揺るがせました。岩槻城が、忍のおさがりのような存在になったことで、岩槻城は、岩槻の人々の象徴、プライドだったとしての地位を失ったのです。

(2)岩槻民、反論す。されど・・・
岩槻城を町の象徴として甦らせるため、成田氏築城説への反論も試みられました。小宮勝男氏の『岩槻城は誰が築いたか』が、それです。

【参考】『岩槻城は誰が築いたか』
岩槻城は誰が築いたか―解き明かされた築城の謎/さきたま出版会
¥1,296
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同書は、岩槻城成田氏築城説の“穴”を突き、読む者に知的興奮を提供してくれる労作です。知的刺激に満ちた好著です。しかし、地元民視点の我田引水が目立つためか、残念ながら学界への影響力は皆無でした。新定説「岩槻城成田氏築城説」は、微動だにしなかったのです。

【参考】
『岩槻城は誰が築いたか』を読む(前)
『岩槻城は誰が築いたか』を読む(中)
『岩槻城は誰が築いたか』を読む(後)


小宮氏の支持者は、「これで岩槻城成田氏築城説は否定された。岩槻城は太田道灌の城に戻った」と喜びますが、学界が態度を変えない以上、行政は動けません。太田氏築城説と成田氏築城説を両論並記し、後者が有力との説明文を変えることはできないのです。

正直なところ、さいたま市は、岩槻城址をどう扱ったらよいものか、途方にくれている印象があります。
岩槻の人々の一部は、岩槻城太田氏築城説は復活した、と言うものの、学界では受け入れられていません。
また、岩槻城址という史跡をもっと活用できたらよいだろうけれど、さいたま市に最後の最後に泣き付いて編入してもらった岩槻区に対して、旧さいたま市側はそこまでの想いはありません。
岩槻城址の価値向上を図るのに、市の財政を使うのは全くのノーではないが、まず案を、というところでしょうか。学界で無視されている成田氏築城説への再反論を岩槻区内で唱えても、その訴えにさいたま市を動かす力は無いのです、おそらく。

(3)人形記念館の迷走
結果、岩槻城址公園へのテコ入れ策は、かつての三の丸の南側の斜面に“人形記念館”をお城風の鉄筋コンクリート造りで建設し、復元天守閣風の岩槻城のモニュメントにしようという案のみ。“人形の町・岩槻”に“人形記念館”があるのはよいことだと思いますが、お城風の鉄筋コンクリート建築で復元天守閣の代わりにしようという考え方はいただけません。

人々の心の中で、象徴として、あるいはプライドの源泉としての地位を取り戻していない岩槻城に、そもそも無かった天守閣を鉄筋コンクリート建築で建てたとしても、それはただのコンクリートの塊に過ぎません。むしろ、誇るべき物語の無い城の跡に、偽りの天守閣を作れば、地元民の岩槻城址への愛はさらに薄れるのではないでしょうか。


3.大切なのは、城にまつわる誇れる“ストーリー”

岩槻に住む者として、新参者ながら、この状況は悲しいものだと思っています。
地元民が、地元のお城を誇りに思えないのは、一つの悲劇です。城や鎮守様は、地域の象徴であり、誇りの源泉であるべきです。それが地域の魅力を高める第一歩となるはずですから。

この状況を何とかするには、やはり、岩槻城にまつわる魅力的で誇れるストーリーを、地元民自身が掘り返すことが必要だと私は思います。

(1)まずは資正から
岩槻城を、
・「マイナーな忍(行田)の成田氏が築城した城か。詰まらないなあ」
・「北条氏の支城として秀吉配下に攻められ、一瞬で落ちた城か。成田氏の忍城に比べると情けないなあ」
とネガティブに捉える認識(成田氏ファン、忍城ファン、後北条氏ファンには大変申し訳ないのですが、こんな認識が、今の岩槻民にはあると感じます)を覆し、この城に誇りを持つには、まずは、太田資正でしょう。

最後は敗れ去るものの、謙信と結んで大勢力の小田原北条氏に立ち向かった資正の生き様は痛快です。時流・時勢に逆らって、己の志を貫く生き様は、敗退の悲劇と相俟って現代人の我々の胸に迫ります。

(このあたりは太田資正ファンの私の好みが色濃く出てしまっています。岩槻民が岩槻城を再び誇りに思えるストーリーとして、資正の生きざま以上のものが他にあるなら、私はそれでもよいと思います)

・太田資正(三楽斎)という城主が存在したことで、岩槻城が一時は上杉謙信と小田原北条氏の覇権抗争の要の地となったこと、
・上杉謙信というビッグネームが、北条氏との合戦の中で岩槻城を訪れていること、
・北条氏康という同じくビッグネームは、自ら親征し、岩槻城を攻めていること、
・豊臣秀吉は、小田原攻めの際に太田資正の智に驚かされ、後に関東を平定した後、岩槻城に立ち寄って城の萩を鑑賞し、和歌まで残していること、
せめてこのくらいは、岩槻城にまつわる“ストーリー”として、城址公園の説明板に書いてほしいところです。
(こうした史実を、地元民が全く知らないこと、知ることのできる状況に無いことが、そもそもどうかしています。岩槻が太田道灌のみに知名度を頼った時代が永すぎた弊害なのでしょう。)

こうした知識があると、岩槻城址の歩き方が変わります。
◎今日、国道旧二号線沿いのガソリンスタンド内にひっそり佇む岩槻城本丸跡碑も、そこで秀吉が萩を愛で、もしかすると小田原で“対決”した三楽斎のことを想ったかもしれないと考えれば、空想を誘う名所になります。

◎武州松山城の喪失後に岩槻城に寄った上杉謙信が、やはりこの場で、太田資正と北条氏への反撃の策を練ったと考えるのも楽しい空想です。

◎北条氏康が、岩槻城を自ら攻めた際、今日の岩槻市街のどこに本陣を置き、どう兵を配置したかを考えると、面白い市街散歩ができるようになります。

(2)築城者論争も、岩槻城の魅力に
一度、反骨者・太田資正を基点に、地元民が岩槻城への誇りを取り戻せば、自分たちを悩ませた岩槻城成田氏築城説に対しても、また違った接し方ができるはずです。
私なら、『築城者の謎』自体を、城のミステリーとして売り出します。
岩槻城の築城者が成田氏であってもいい、という余裕が心に生まれれば(今の岩槻民にはその心の余裕がありません)、むしろ視界の泰斗と地元の郷土史家が築城者の謎を巡って、同じ一次史料から全く異なる説を展開していること自体が、実はとても魅力的な状況なのだと気づくことができるはずです。
(ジョースター卿の「ジョジョ、逆に考えるんだ。あげちゃってもいいさと考えるんだ」の心境です。)

歴史愛好家は、謎やミステリが大好きなのです。華やかな合戦絵巻の舞台としての岩槻城を訪ねた歴史好きが、そこで築城者の謎に出会えば、岩槻城に感じる魅力が増すはずです。

【参考】『ジョジョの奇妙な冒険』
ジョースター卿の有名な「逆に考えるんだ」は、『ジョジョの奇妙な冒険』第一部から。
ジョジョの奇妙な冒険第1部ファントムブラッド総集編 1 (集英社マンガ総集編シリーズ)/集英社
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(3)秀吉勢の岩槻城攻めを追体験するイベントも
反骨者・太田資正を岩槻民の誇りにするならば、他の展開もできます。

太田道灌に馴染みのある岩槻民は、小田原北条氏に対しては実は相当冷淡です。
今日残されている岩槻城の郭(曲輪)が、小田原北条氏が岩槻城を押さえて以降に作られたものであることも、実は岩槻城址の好きになれない部分であったりします。
そのため、岩槻城がその北条氏側の城として秀吉勢と戦った小田原征伐の際の籠城戦には、端から感情移入ができません。その上、岩槻城はあっさり攻め落とされているのですから、情けない気分もひとしおです。

しかし、太田資正の城として、岩槻城が北条氏の攻めを何度も凌いだ城だと位置付ければ、あっさり敗れた小田原征伐の際の籠城戦にも寛容になれます。よくよく読んでみれば、岩槻城攻めを秀吉に報告する浅野長吉の書状を見ると、この時の岩槻城の抗戦が激しいもので、秀吉側が相当な被害を被りながら、数の力で押し切ったことが見えてきます。むしろ、「秀吉側は、堅城・岩槻城をどうやって落としたのか?」という視点こそ持つべきものです。

秀吉側は、堅城・岩槻城をどうやって落としたのか?」という観点で市街を見ると、当時の岩槻城の防衛ラインとしての「大構」(惣構え)が、今日も地形として残されていることがわかり、そこを歩く楽しさが分かります。
例えば、久伊豆神社から本丸公民館に至るダウン(↘)アップ(↗)の道は、当時の広大な濠(地形はほぼそのまま残っています)を横断する道です。城内からの鉄砲や弓矢で屍を重ねながらも、秀吉勢が岩槻城を攻めた激戦の様子は、このダウン(↘)アップ(↗)を歩けばわかります。
秀吉勢が集結し、鎧武者で埋め尽くされたことから、後に「鎧宮」と呼ばれた八幡神社散策をセットにすると、地形の妙をさらに楽しめるでしょう。

(このことを解説している岩槻城説明(説明板やパンフレット)を、私は一度も目にしたことがありません。住宅街になってしまった地域の取り扱いの難しさがあるのでしょうね。)

イベントにするならば、攻め手・守り手に鎧を着せて、模擬合戦を演じさせても良いと思います。

 ※ ※ ※

ダラダラ長文を書きましたが、要するに、私が言いたかったのは、以下の3点です。
(1)城にまつわる誇れるストーリーが無く、地元民が岩付城址を誇れる存在として認識できていないことが、今日の城址への愛の欠如と、その結果としてのつまらなさを生んでいる。
(2)誇れるストーリーを一つでも地元民が共有できれば、「逆に考えるんだ。あげちゃってもいいさと考えるんだ」(ジョースター卿)の境地に達し、今ある遺構・地形を生かした城址の魅力づくりはいくらでもできるようになるはず。
(3)その誇れるストーリーの1つとして、私は反骨の岩槻城主・太田資正(三楽斎)の物語を推す。

岩槻城址は、今日の岩槻城址公園だけではなく、岩槻の町全体に広がっています。
広大な大構(惣構え)の城が、そのまま町になってしまった岩槻と岩槻城の面白さは、掘り起し、紹介するストーリー次第で何倍にも膨れ上がると思っています。


補論>
岩槻城の魅力を高める物語として、戦国の岩槻城主・太田資正のストーリーを地元民の共有財とすることは可能か?
その点について、もう少し考えてみました。

そこには、肯定的な側面と否定的な側面があります。

(1)肯定的な側面
肯定的な側面は、
・太田資正が、岩槻民に馴染みある太田道灌の曾孫であり、過去の誇れるストーリーと地続きの物語であること。
・太田資正の支配領域が岩槻区に留まらず、売り出し方によっては、さいたま市全域を代表するスターとして担ぎ出し易いこと(あくまでも太田道灌に比べて「相対的に」ですが)。等。

前者は旧岩槻市内の内向きの納得の論理、後者は岩槻城をさいたま市全体の誇れる共有財にするための仲間のづくりの論理です。
旧岩槻市=岩槻区に対して仲間意識をほとんど持たない、さいたま市中核部(旧浦和市・旧大宮市)の人々を味方に付けねば、さいたま市の財政は本気では動きません。

岩槻城を、旧大宮市・旧浦和市の人々にとって誇れる者とすることは、旧岩槻市民が岩槻城への誇りを取り戻すのと同じくらい重要です。

実際、太田資正の物語には、旧大宮市・旧浦和市を仲間にする潜在力があります。
というのも、さいたま市内、或いは埼玉県内では、醜い内ゲバを繰り返す旧大宮市と旧浦和市ですが、神奈川県という“共通の坂の上の雲”を見上げる時、ある程度の団結を見せるのです。
特に旧浦和市民は、身の程をわきまえず(?)、こともあろうか天下の湘南に対抗意識を持っています。

太田資正は、関東で圧倒的な勢力を誇った南方の小田原北条氏と戦い抜き、時に大いに苦しめた武将。小田原北条氏を今日の“にっくき神奈川”(神奈川県民側は眼中にも無さそうですが)と重ねれば、資正は、旧浦和市・旧大宮市を巻き込んだ仲間意識づくりの核になり得る可能性があります。

(2)否定的な側面
否定的な側面は、旧岩槻市内の内向きの論理にも、資正をさいたま市全体の共通のヒーローにしようという拡大の論理にも存在します。

旧岩槻市の内向きの論理としては、「芳林寺をどうする?」という問題のクリアが課題になります。

芳林寺は、戦国時代に創建され、太田資正の息子・氏資公の菩提寺となった寺院です。
実は、父・資正を裏切って北条氏に付いた氏資公は、岩槻太田氏の代々の菩提寺である養竹院(岩槻ではなく岩槻太田氏の故地である埼玉県川島町にあります)には位牌が置かれていません。
岩槻太田氏にとって、言わば“裏切り者”であった氏資公は、一族の菩提寺には入れなかったのです。
その氏資公の菩提寺となったのが、公の母・芳林妙春尼と縁の深い岩槻の芳林寺でした。芳林寺は以来、太田氏資公と母・芳林妙春尼の菩提寺として今日まで続くのですが、その歴史の中で、一種の“歪み”を背負うことになります。

江戸時代のある段階から、「岩槻城太田道灌築城説」を地元の誇りとするようになっつた岩槻は、太田道灌と岩槻の所縁を、芳林寺に求めるようになりました。
一族の“裏切り者”として一族の菩提寺に入れなかった氏資公。その氏資公と母だけの菩提寺が、何の因果が、岩槻という地と太田道灌との繋がりの証としての役割を負うことになったのです。
これは、実に皮肉なことです。

そのため、太田一族の“裏切り者”をひっそりと追悼するこの芳林寺には、今日、岩槻と太田一族最大の英雄である太田道灌を結びつける唯一の史跡として、勇壮な太田道灌銅像が置かれるに至っています。

関係者には申し訳ありませんが、芳林寺の由緒を考えれば、そこに太田道灌像が颯爽と聳える光景は、皮肉であり、珍妙なものです。

この皮肉は、一つの副作用をもたらしました。
太田道灌に次ぐ一族の英雄と言えば太田資正です。
しかし、岩槻が誇る太田氏との所縁の寺・芳林寺の主役はあくまでも氏資公。氏資公が自ら追放した父・資正を顕彰するものは、芳林寺には置くわけにはいきません。当然のことながら、芳林寺は、英雄・資正の存在には光を当てないように気遣っています。

芳林寺が、氏資公の菩提寺としての性格上、資正を顕彰する施設となっていないことは当然のことですが、この寺に太田道灌との縁を求めて旧岩槻市が特別な地位を与えてしまいました。
実はこれが問題です。
行政は、芳林寺への気遣いのために、息子・氏資公とは違い、反北条の戦いを貫いた太田資正の物語を、岩槻城を象徴するストーリーとして語ることを遠慮せざるを得なくなったからです。

考え過ぎかもしれませんが、私には、旧岩槻市が、「太田道灌の岩槻」を売り出すために芳林寺を同寺本来の位置付け以上に活用することで、その副作用として「太田資正(三楽斎)の岩槻」を語りにくい状況を自ら作ってしまったように思えます。

太田資正の物語を、岩槻城の代表的なストーリーとして打ち出すには、芳林寺をめぐるこの歪みの解消が必要。それが大きな課題となるはずです。
(私は個人的に、資正と氏資公の和解の儀式が必要だと思っています)



拡大の論理の否定的な側面はシンプルです。
過去、旧岩槻市民が岩槻城を傘にきた頑なプライドを有していたことが、旧浦和市・旧大宮市から「今は寂れているくせに」という反発を引き出していた負の歴史があります。この負の歴史を超克できないと、「知られざるさいたま市の名将・太田資正」という謳い文句に誰も乗ってこないことになります。

この課題の解決には、太田資正の売り出しの発信源は、旧岩槻市ではない方がいいのかもしれません。
また、旧市時代のわだかまりを自然に超克できる程に、資正の物語を魅力的に語ることも必要です。


どちらの否定的な側面にも、手立ては色々考えられます。
大切なのは、課題があることを認識した上で、その克服を考えること。
ストーリーの掘り起こしによる岩槻城の魅力向上は、大きな可能性を秘めています。それだけに、知恵を絞りたいところです。


この小論が、岩槻城址の現状に課題意識を持つ同志に見つけてもらい、読んでもらえることを願いつつ、一旦筆を置くことにします。


【参考】
岩槻城主・太田資正の生涯に関する書籍

論集戦国大名と国衆 12 岩付太田氏/岩田書院
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後北条氏の武蔵支配と地域領主 (戦国史研究叢書)/岩田書院
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