ちょうどひと月前の今日にあたる12月7日。妻はこの世を去りました。



あの日は、妻の入院先の病院からの電話で、起こされました。

電話があったのは、朝6時。
ワンコールで出ました。その前日、妻のあまりの衰弱ぶりを見てショックを受けた私は、心がゾワゾワし、深く眠れなかったのです。

電話は、妻が好きだったお気に入りの看護師さんから。
「意識レベルが急に低下して、いまは脈が取れません。なるべく早く来てください」。

すぐに飛び起き、応援に来てくれていた父に息子を預け、クルマで川越を目指しました。



前日の12月6日、妻は終始穏やかな表情を浮かべていましたが、すでに喋ることができなくなっていました。
いや、本人は喋っているつもりなのですが、口が上手く動かず、内容が全く聞き取れないのです。

その前々日の12月4日には、電話で話ができたというのに。

喋ることが何より好きだった妻のその姿に、私は慄然としました。
どうにも落ち着かなくなり、居てもたってもいられなくなった末、帰り際、妻の妹さん達に「あるラインを越えてしまったかもしれない」と、メールを送りました。

それでも、何とか踏みとどまってほしいと思い、一緒に見舞いに来ていた息子も入れで、三人で手を繋いで環になりました。
奇跡のような復活を遂げた8月の入院前夜、痛みで呻く妻を支えるため、息子が提案して作ったものと同じ、三人の環。

あの時と同じように、妻は、医者も看護師も驚くような回復ぶりを見せてくれると、信じたくて。



前夜の三人の環を思い出しながら、病院に向かう車中。ふと、時計を見たタイミングがありました。

ちょうど大宮台地の西の端にあたる、日進南の交差点で止まった時です。
時計は、6時30分を指していました。

この調子ならば、7時前には、病院に着く。
どうか、意識が戻っていますように。
たとえ最悪の事態になるとしても、最期の瞬間には間に合いますように。

信号が青に変わり、アクセルを踏んだ時、ちょうど背後から朝日が差し込んできました。

この病気になってから、そして抗がん剤を拒否して自然治癒を目指すと決意してから、妻は朝の御来光を見ることを習慣にしていました。

どんなに辛いときも、朝日を見ると体にエネルギーが注がれ、心が晴れやかになると言って。

この朝日を、病室で妻も見ている。

そう私が信じようとしていた頃、後で看護師さんから聞いたのですが、まさにちょうどその頃、妻は息を引き取ったそうです。



病室に駆け込んだのは、6時50分。
妻は、フラットに倒されたベッドで、少しだらしなく寝こけている、といった感じの表情で横になっていました。

8月以降、下半身の浮腫の辛さで、ベッドを倒して寝られなかった妻が、ベッドをフラットにして横になっている。
そのことの持つ意味は、即座に分かりました。

病室には、妻が好きだったハープのCDが掛かっていました。
後で看護師さんに聞くと、妻は昨夜からずっとこのCDをかけていたそうです。

「最後は、苦しそうでしたか?」と尋ねると、
「いいえ、本当に眠るようでしたよ。」と看護師さん。

それを聞いて少し救われ、妻の顔を撫でました。
私も好きだった、あの癒しに満ちた音色の中で、妻は本当に安らかな顔で横たわっていました。
妻の体には、まだ、ぬくもりが残っていました。

しかし、救われたという気持ちは、喪ったものの大きさの前にすぐに飲み込まれてしまいました。
叫びがこみ上げてきました。

起きろよ!
目を覚ましてくれよ!
なんで、あと少し待っていれくれなかったんだ!
なぜ、今日なんだよ!



それから、いろいろな方が病室を訪れてくれました。

看護師さん達、院長、名誉院長の帯津先生、入院の担当医だったK先生、毎日体のケアをしてくれた二人の鍼灸の先生。

皆さんが、「奥さんは意思を貫いたね」「頑張ったね」「精一杯やり抜いたね」と声を掛けてくれました。

馴れ馴れしく、誰にでも友だちのように話しかけ、自分の闘病のことを語っていた妻は、ある種の“名物患者”だったようです。

妻が己の意思を貫いたことへの称賛の言葉をもらいながら、しかし、私は納得できない思いでした。

なぜ、今日なんだ、と。



妻の余命が私に告げられたのは、11月20日でした。

それまで、転移した癌が日々大きくなる中でも、妻の内臓は比較的よく機能していました。
8月に腹水が溜まり、「もはやこれまでか」と追い詰められたこともありましたが、その後はステロイドで腹水が溜まらない状態を維持することに成功。一時は異常なほど食欲が回復欲したたこともありました。
そうした経緯もあり、9月中旬以降、再び妻の内臓は活動が鈍り始めたものの、また復活劇があるのではないか。あと半年くらい頑張れるのではないか、と私は考えていました。

しかし、11月20日に、もはや、そんな楽観的な状況ではないことを、入院担当医のK先生に告げられました。

K先生は、妻が最も信頼し慕っていた女性の医師。そのK先生は、私にこう言いました。

「もう時間は無いよ。本人も、自分の闘病方針で上手くいかないことに気づきはじめて、不安になってきている。だからね、ご主人、どうか奥さんに後悔の無い日々を送らせてあげて」

そう言われて、いろいろなことを考えました。

病院を出て、在宅で妻を看取ることを考えました。介護休業を取って岩槻の家で面倒を看るか、妻が恋しさを口にするようになっていた故郷静岡に行くか。
静岡の妹さんの家で、私が泊まり込んで在宅介護をすることも考えました。

考えに考え、最後にたどり着いたのは、免疫細胞療法でした。



免疫細胞療法は、患者自身の免疫細胞を採取し、元気なものを選んで増殖させ、再び患者に注入して癌と戦わせる療法です。

理論は完璧ですが、効果については賛否両論。
少なくとも保険適用になるレベルでのエヒデンスは得られていません。

保険が効かないため、最も安いものでも、一回の採血・増殖・再注入でも30万円かかります。
それを月に2回、3ヶ月続けることが1つの治療単位。そこに、免疫細胞に癌細胞を認識させるための追加的な措置を加えると、金額はざっと倍になります。

しかも、1クール3ヶ月の治療で効果が出るとは限らず、2クール、3クールと続けて初めて奏効するのことも、少なくありません。

普通に考えれば、おいそれと手出しできる治療ではありません。

しかし、費用の面を除けば、自分の身体が本来持つ力を活用する、という考え方は、妻の志向性に合っていました。

11月20日に、妻の余命を告げられてから一週間。在宅介護の方向も考えつつ、悩みに悩みに、この治療に賭けると決めました

妻には、残された日々を静かに過ごすような最期は相応しくありません。最後まで自分の好きなやり方で希望をもって頑張ることこそ、妻の生き方でしたから。



それからは会社を休みまくって、免疫細胞療法のクリニックを訪ねました。
そして、既に数歩しか歩けなくなっていた妻が、免疫細胞療法を受けるにはどんなプランがよいのかを考えました。

お金の工面をしつつ、2つのクリニックに相談して、プランがまとまったのは、12月4日。妻が逝く3日前でした。

詳細は省きますが、2つのクリニックの提案を組み合わせることで、年内にまず一回、年明け早々に集中治療を行うところまで、段取りを組むことができました。

12月4日の夜、電話でこのことを報告した時、妻は本当に喜んでくれました。

「あーよかった。これで治るね」と妻。
その頃、嫌なイメージしか湧かなくなっていた妻でしたが、その日は、「こんなに良くなるなんてね」と夫婦で喜ぶ情景が浮かんだ、と言ってくれました。



その、年内最初の免疫細胞療法のための外来受診日が、12月8日。妻が逝った日の翌日でした。
なぜ今日なんだよ、と、叫んだのは、あと1日だけでも生きていてくれたらとの思いからでした。

妻が最も信頼し、慕っていたK先生が、病室に現れた時、私は先生にこのことをぶつけました。

「先生に余命を告げられ、それから必死で準備しました。でも、段取りがすべて整って、いよいよ明日から治療だという日にこうなるなんて、一体なんなのでしょうね」

「私も看護師から聞いたよ。すごく喜んでいたみたいだね、奥さん。」と、先生。
先生は、大きな目から涙をボロボロ流していました。
「私も先週、何回か聞いたよ。夫が私のために最高のプランを用意しようとしてくれているって」

「そうだったんですか」

「そうだよ。だからね、ご主人、無駄じゃなかったんだよ。だって奥さんは、最後まで希望の中にいられたんだから」。

それにね、と先生は言ってくれました。
「もしも、奥さんが明日まで生きていたら、どうなったと思う?」

そう言われて、ハッとしました。

昨日の時点で、妻は、数秒立つこともできない状態でした。
一週間前、免疫細胞療法に賭けようと決めた時は、まだそれなりに歩けましたし、普通に話もできました。それが僅か一週間で、信じられないスピードで、衰えていったのです。

もちろん、妻の体力の衰えは織り込んでいます。
介護タクシーで寝たまま移動し、行き先の病院も、ストレッチャーで寝たまま診察室に入る段取りを組んでいました。
しかし、それでも、昨日の時点の妻の状態を思えば、クルマで数十分の移動することは、ほぼ不可能に近い状況でした。

「明日の朝が来て、奥さんが生きていて、免疫細胞療法のための移動日で。でもさ、ご主人は、奥さんを連れていく決断はできたと思う?」と先生。
「連れていけば、それだけで弱ってしまうんだよ。行って、帰って、それだけで疲弊して、もしも、その夜にでも亡くなるようなことかあったらさ、ご主人、どれだけ後悔するか分からないよ」

もしもそうなれば、私に残される想いは、後悔などという言葉では、語れないものになっていたことでしょう。
私が妻を殺したも等しい状況なのですから。

「仮に連れて行くのを諦めれば、今度は、奥さんが可哀想だよ。旦那が用意してくれた治療で、本人は治ると喜んでいたのに、それが叶わないと分かったら・・・辛いよ。」

だからね、ご主人、私は思うよ。奥さんはこれ以上ない日に旅立ったんだよ。だって、残される家族に後悔を残さず、自分も絶望することなく希望をもって旅立てるのは、今日しか無かったのだから。
だから、今日だったんだよ。

「本当に、大した人だったよ、奥さんは」

先生は、私と一緒に泣いてくれました。



それからしたことは、妻の家族への連絡、支えてくれたママ友さん達への連絡、会社への報告。
それから、病室の私物の運び出し、霊柩車を手配して葬場の霊安室へ移動、葬儀の段取りの話がさっそく始まり、それを終えてから、家に帰って息子に彼の母親の死を伝えました

妻の妹さん二人は、その日の内に静岡から駆けつけてくれ、霊安室で泣き崩れました。

味も感じないまま、ファミレスで食事を取り、妹さん二人がまた静岡に帰り、父と私、息子の三人で床につきました。



床についても眠れません。
寝た気になっても、すぐに喉が乾いて目が覚めます。
涙で鼻が詰まり、口でしかで息が吸えないのです。

ただ徐々に、「でも、よかったのだ」と思えるようになりました。

K先生が言ってくれたように、妻が、自分も辛くなく、残す家族も苦しめずに旅立つには、確かに今日しかありませんでした

その前日は珍しく、息子同伴のお見舞いなのに昼から夜までのんびり妻と一緒の時間を過ごすことができ、最後は妻と息子と私で、三人で手を繋いで環になることもできました。あれをしていなければ、息子も私も、妻の最後の温もりを染み込ませることはできなかったでしょう。

妻の妹さん(次女)と妻を、電話で話をしてもらうこともできました(会話にはならなかったけれど)。

その前日には、妻の両親に来てもらって、最後の笑顔を見せることができました。

その少し前には、会話ができる最後のタイミングで、妻の妹さん(三女)が長電話をすることもできたのです。

・・・なんだ、妻は、ちゃんと準備を終えて、旅立ったんだ。

突然、それもよりによってなぜこの日にと思ったけれど、実は家族に最後の温もりを伝えていったのだ。

意外に、そういうところは、ちゃんとしているんだよな。

そう思うと、やっと眠りにつくことがでしました。



ひと月前の今日は、そんな1日でした。
ひと月経って、やっと書くことができました。



妻が逝く一週間前の写真。
妻は、見舞いにきた息子と一緒に小さなハープを弾きました。
私が撮った、妻の最後の写真です。