先月この世を去った妻との10年前の思い出話です。酔った勢いで書いたので、後で消すかもしれません。

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件名は『東京ポエマー』、本文にはそのサイトのURL。
そんな携帯メールを妻からもらったのは、2006年2月の初め頃でした。

いや、「妻」と書くのは正確ではありません。
私と妻が結婚したのは2007年10月。2006年2月のこの頃は、結婚どころか、付き合い始めてすらいません。
その時、妻は、私が旧姓で「M岡さん」と呼んでいた空手道場の仲間の一人に過ぎませんでした。

しかし、そのメールは、私にはとても嬉しいものでした。
『東京ポエマー』は、私の想いに対する、妻、いや当時「M岡さん」の返答だったのです。

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代官山の空手道場で妻と知り合ったのは、2005年6月頃でした。

某空手会派で全日本チャンプになったS先生が、サラリーマンを続けながら開設した新設道場。
学生時代にフルコンタクト空手に打ち込んだのも遠い昔、当時の私は仕事に必死で、半ば会社に住んでいるような生活を送っていました。
「運動不足にもほどがある。そろそろまた体を動かさねば」
と、道場探しを始めて最初に見学に訪れたのが、この道場でした。

スタイルは、私が学生時代に学んだ空手と同じ。
道場の雰囲気の明るさと、馴染んだスタイルに親近感を覚えた反面、どうせ空手を再開するなら別のスタイルも学んでみたいと思っていた私。
入門するかは、少し悩みました。

しかし、「一緒にやりませんか」というS先生の笑顔と、その時の道場で、顔を真っ赤にして懸命にミットを蹴り込んでいた背の低い女性道場生の姿に好感を覚え、入門を決めました。

あまり自信は無いのですが、あの時見た背の低い女性は、独身時代の妻、「M岡さん」だったような気がします。

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「M岡さん」は、いつも道場にいました。

当時のS先生はサラリーマンを続けていた制約もあり、稽古日はまだ週二回(水曜日夜と土曜日の昼)。現在のS先生の道場は、指導員も増え、毎日稽古が行われていますから、それに比べれば可愛いものです。
それでも週2回の稽古を、一日たりとも休まず皆勤を続けるのは、それほど簡単なことではありません。実際、ほぼ毎回来る人は他にいましたが、確実に毎回稽古にいた人は、「M岡さん」しかいませんでした。

道場に来れば必ずいる「M岡さん」に、私が好意を持つようになったのがいつだったのかは、自分でもよく覚えていません。

しかし、少なくとも8月くらいには、稽古後にみんなで食事に行く際に、妻の隣の席を狙っていた・・・ような気がします。

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当時の道場(今もそうかもしれませんが)は、メインターゲットが、外国人と女性でした。

「強くなりたい男の子のための空手道場なんて、どこにでもあるからさ」とS先生。
実際、日本人男性の道場生はわずかでした。道場主のS先生、弟で師範代のA先生以外は、私と、私と同時期に入門したK塚くんの四人だけで、残りの男性は全て外国人でした。
フルコンタクト空手自体に目新しさはありませんでしたが、大きな外国人男性たちと空手ができるのは、当時の私にはとても楽しいことでした。

そんな日本人男性希少時代です。
「M岡さん」も、当然私のことをすぐに覚えてくれるかと思いきや、そんなことは全くありませんでした。

同時期に入門したK塚君と私が揃ってメガネ男だったこともあり、「M岡さん」はかなり長い期間、私とK塚君の区別がつかなかったのです。

2005年の夏のある日、道場で「M岡さん」がK塚君に近寄り、「こないだ見せてくれたコンビネーションって、こうだっけ?」と聞いているのを見たことがありました。

私がどれだけ消沈したか。
先週その技を見せたのは、私だったのです。

学生時代にフルコンタクト空手に打ち込んだ私は、初心者の多かった当時の道場では、多少は一目置かれる存在でした(だったはず)。基本も、移動も、 ミット打ちも華麗に(?)こなす新入り道場生として独特の存在感を放っていたはず・・・。
S先生も「ターゲットは外国人だけど、日本人男で空手がしっかりできる人がいないと締まらないからね。期待してるよ~」と言ってくれていました。

K塚君は本当に優しい好青年(同世代をそう呼ぶのも変ですが)でしたが、空手は初心者。まさか、メガネ男というだけで、空手初心者と間違われるとは!

その日の私は、いつも一緒にミット打ちをするイギリス人道場生トムさんの誘いを断り、K塚君を指名。後で思い返すと申し訳なくなるくらい、力を込めてK塚君の持つミットを蹴り込み、彼をグワングワンと揺さぶったのでした。

「オトコノ嫉妬、カッコワルイネ」と、トムさんが思ったかどうか。

S先生からは、「今日は力み過ぎだね。ダメだよ、それじゃ」と、笑われました。

あの頃、「M岡さん」の視野の中に、私の存在はなかったのです。
それでも、空手の稽古に情熱を傾ける「M岡さん」の姿を、眩しく眺めることで、そこそこ満足していた当時に私でした。

彼女が、なぜそれ程までに打ち込んでいるのかは、考えもしませんでした。

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「M岡さん」が、どうやら私とK塚君が別人だと気づいたらしいのは、その年の秋頃。

当時、外国人道場生の中核的存在だったトムさんが開いたパーティに呼ばれ、出席してみると、道場仲間は私と「M岡さん」のみ。
そこで話をしたことで、やっと「M岡さん」も、メガネ男2人は別人だと認識したようでした。

加えて、土曜日の稽古後、トムさんを中心にランチを食べに行くメンバーになったこと。それも、メガネ男2人の区別に役立ったはずです。当時の私は、毎回「M岡さん」の隣の席か、向かいの席に陣取っていましたから。

同時に私も、「空手が好きで、稽古に皆勤で来ている人」というだけではない、「M岡さん」の性格を徐々に知るようになっていました。
稽古熱心で、一見明るく楽しげですが、実は日本人女子のグループとはほぼ完全に没交渉。オーストラリア人やフィリピン人の女性道場生とはかなり親しくはしていたものの、“群れない人”、“群れるのが苦手な人”であることが徐々に分かってきました。

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転機が訪れたのは、2005年の12月。

「M岡さん」が、仲のよかったフィリピン人の女性道場生に教会のクリスマス演奏会に誘れたこと。そして、近くにいた私に「※※※さんも来る?」と声をかけてくれたことが、関係の変化のきっかけになりました。

当時の私がどれだけ浮かれたかは、このブログのその頃の記事を読めば、赤面するほどよくわかります。

教会のクリスマス演奏会自体は、行って、聞いて、ご飯を食べて解散、と、極めてアッサリ終わりました。
しかし、教会からJR恵比寿駅に向かう途中、フィリピン人の女の子が教会の友だちとのおしゃべりに夢中になったことで、「M岡さん」と私が話をする機会が生まれました。

さすがに10年前の話です。何をしゃべったかはほとんど覚えていません。
でも、一つだけ覚えていることがあります。それは、「それにしても、本当に毎回稽古に出てるよね」と私が尋ねたのに対し、M岡さんが「汗かいて、ご飯食べて、何も考えないで、バタンと寝たいから」と答えたこと。

忘れたいこと、考えたくないことがあり、だから空手に打ち込んでいる。
それが、「M岡さん」の心の影を見た最初の瞬間でした。

その時は、それ以上詮索する時間がありませんでしたが。

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その後の自分の取った行動は、恥ずかしすぎて、思い出すのも憚られるもの。
ビールを飲みながら、だから書けますが、後で消すかもしれません。

「M岡さん」の心の陰のそのわけを、私は知りたいと思いました。
教会のクリスマス演奏会の待ち合わせのために教えてもらった携帯電話の番号に、その後時々電話をかけるようになりました。

実際のところ、「話は合った」のです。
私もよく喋る人間ですが、後の妻、「M岡さん」も相当な喋り好きです。
空手の話から始まり、仕事のこと、友だちのこと、その他もろもろ。いろいろなことを話しました。

一番多かったのはもちろん、共通の話題である空手のこと。
当時のS先生道場は、手探りの試行錯誤期。フルコンタクト空手系でありながら、実際にはライトコンタクトしかしておらず、「M岡さん」は、それが不満でした。
「ちゃんと本式のやり方で厳しくやってほしい」と、よく言っていました。

そんな「M岡さん」の話を、私は、結構楽しんで聞いていました。
しかし、調子に乗りすぎました。

「M岡さん」が、空手に打ち込んで忘れたいと思っていることを聞き出したくて、私はある日、それを引き出してしまったのです。

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彼女は、話の流れの中で過去のこと、今のことを話してくれました。

私は、人生の全てをかけてマンガを描いていた。
有名マンガ家のアシスタントをしながら持ち込みを続け、7年かけて集英社の「マーガレット」でプロデビューを果たすことができた。
それから5年間、必死で描き続けた。
でも、自分で目指したところには辿り着けなかった。
それどころか、自分には、自分が描きたいものを描く才能が無いことに、気づいてしまった。
もうダメだと思った。辞めるしかなかった。
でも、漫画を辞めたら、自分には何も残っていない。空っぽだった。
お腹も空かないし、ご飯も美味しくない。そして、夜も眠れない。
そんな時、空手に出会えた。
空手で汗を流すと、お腹が減る。ご飯が美味しく食べられる。そして気持ちよく、眠ることができる。
今はそれが嬉しい。
でも、考えてみると、それだけなんだ。
それ以外、何も無い空っぽの存在が私なんだ。

電話の向こうでそう語る「M岡さん」の声が、次第に声が暗く、小さくなっていったことに、私は気づいていませんでした。
まだ聞こうとした私に、彼女は、小さなため息をついて、こう言いました。

「疲れた。もう電話してこないで。これ以上、あなたに話すことは、何も無いから」

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それ以降は、道場で顔を合わせても、言葉は交わせませんでした。

クリスマス演奏会で盛り上がった私の2005年の年末は失意で終わり、何のめでたさも感じない2006年の正月を迎えました。

そして稽古初め。
やはり、道場で顔を合わせても、言葉は交わせない日々が続きます。

しかし、ある時、他愛のない会話をすることができました。当時始まった、「受け返し」の相対稽古が、会話の機会を与えてくれたのです。

帰り際に、「謝りたいから道場では無いところで会ってほしい」とお願いすると、彼女は「いいよ」と言ってくれました。

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2006年の2月の初旬。
何日かは覚えていませんが、それが火曜日だったことは、何故か鮮明に覚えています。

新宿でお茶でも飲もうと、伊勢丹前に18時、で待ち合わせをしたものの、私は仕事上の突発対応が入り、30分遅れることになりました。
「どうしても30分遅れる。どこか、暖かいところに入っていてよ」とメール。

約束通り30分遅れで合流し、お茶を飲んで、年末に余計なことを聞き出してしまったことを謝りました。

その日の夜でした。
冒頭に書いた、件名「東京ポエマー」、本文URLの携帯メールを受け取ったのは。

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「東京ポエマー」は、「M岡さん」が書いていたブログでした。

プロの漫画家として、自分の描きたい物語を世に送り出したいと願い、そのために人生の全てを捧げたひとりの女性。彼女が、夢を捨てた後に訪れた空虚なる日々を、必死に生きた軌跡が、そのブログには書かれていました。

夢を諦めても、静岡の実家には帰ることはできない。
この東京で何かマンガに代わるものを探したい。
打ち込める何かを探し、何者かに、自分はなりたい。

そんな心の叫びが綴られていました。

また、日々想ったことが詩のように書かれていました。

東京が砂漠だとしたら、自分は無数の砂の一粒に過ぎない。
でも、私はそれでもいい。
一粒の砂として、風に飛ばされる。
砂粒はそうするしかないし、
誰だって、そんな砂の一粒に過ぎないのだから。
私は街行く人々をじっと眺めることができる、このテラスが好きた。
一杯のコーヒーを飲みながら、この街で生きる人々が砂のように吹かれ、流され、舞っていく様を、見ることができる。
私自身もその砂の一粒。

(印象に残ったエントリーをおぼろげな記憶で再現したものなので、実際の文章にどこまで近いかは定かではありません。)

仕事での奮闘のことも書かれていました。
「マンガを辞めた私には武器がない。デザイン学校で学んだ技術はすべてアナログ時代のもの。デジタル時代の今はもう化石。だから、私は学ばねば。戦える武器を掴むために。」

そして始まる、触ったこともなかったパソコンを買い、学校に通って、フォトショップやフラッシュを学ぶ日々。
働いて得たお金を、技術を得るための学校に払い、その技術を活かして次の仕事を得る。綱渡りのようなぎりぎりの生活を、彼女が送ってきたことが、よくわかりました。

フリーで生きるものが直面する厳しい世界。
そうした世界での生きているせいか、「東京ポエマー」の文章には、独特の“鋭さ”がありました。
尖っていて、繊細、そして、何とも言えない透明感が、全体を貫いていました。

それは、美しい詩集でした。

私は「東京ポエマー」を読み進めました。
そして、途中から緊張に襲われました。
秋頃から、ブログの中に、私が登場していたのです。

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「東京ポエマー」には、「M岡さん」から見た私が書かれていました。

最初は、迷惑な奴として登場します。
「空手は、汗をかいて、ちゃんとお腹を減らせて、御飯をしっかり食べて、バタンと寝るためだけにやっているのだ。
友達が欲しくてやっているわけではないし、まして彼氏がほしいわけではない。
だから、私のことを知りもせず、ずかずか近寄ってくる男は、迷惑でしかない。
ちょっとばかり空手が上手いからと言って、だから何なのだ」
・・・と。

年末になると、「失敗だった。演奏会になんて誘うんじゃなかった。言わなくてもいい事を話してしまった。」という内容の記述もありました。
年明けになると、「『もう電話するな』は、言い過ぎだったかな。でも、本心だから仕方ない」。

思わず頭を抱えました。

しかし、その後少しずつトーンが変わっていきます。
最新のエントリーには、新宿でお茶を飲んだその日のことが書かれていました。

「『遅くなるから、暖かいところで待っていてよ』と、そんな言葉をかけられたのは初めてだ。
ただの言葉に、心を暖める力があることを、私は知らなかった。
ひとりで生きてみせると思っていた私の知らない温かさ。
情けないが、これには、やられた。
自分がこんなにも弱い人間だなんて。
でも、もうその弱さを認めようと思う。
もしも、彼が、私の言ったひどい言葉を忘れてくれて、また近づいてくれるならば、
私は、今度は違う答え方をしたい。
今日までできなかった日々の過ごし方を、今度はできそうな気がする」

正確な文言は、もちろん、覚えていません。
でも、書かれていたことの大意は、そんな内容でした。

しばらくすると、彼女から、「読んだ?」とメール。
その問いにストレートに返事をするのは、なんだか無粋な気がして悩んだ私は、「また、お茶を飲みにいこうよ」と返信しました。
すると今度は、彼女から「ありがとう」と返事がきました。

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彼女と私の関係は、一変しました。
一ヶ月後、私は、後に妻になる「M岡さん」に「結婚してください」と伝え、彼女は、私の部屋に住むようになっていました。
驚くくらいのスピードで、ものごとが進んでいきましたが、不思議と、全てが自然なことに思えました。

道場での彼女の存在にも、変化がありました。
私たちより先に入門した第一世代の女性道場生らが、稽古内容の本格化とともに姿を見せなくなりました。そして 、最古参の先輩道場生となっていた妻は、S先生から指名を受け、後輩の指導をする立場になっていたのです。

“群れない人”だった彼女が、後輩の女性道場生らに慕われている姿は、本人の戸惑いや気負いも含め、微笑ましいものでした。

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「東京ポエマー」は、その後も少し書き続けられていましたが、2006年の夏頃を最後に更新が止まるようになりました。

「あんな恥ずかしいブログは、もう書けない」と、笑う彼女。「ブログを退会して、全部消すけどいいよね?」

私は反対しました。
「東京ポエマー」の妻の文章には、独特の透明感があり、私はそれが好きでした。
過去の記事も、繰り返し読んでいました。
それに、妻が書いたあの日のエントリーは、消してほしくなかったのです。
「更新しなくてもいいから、ブログ自体は残してほしい」とお願いしました。

それでも妻は、「あなた向けにプリントアウトしておくから。だから、あんな恥ずかしいブログは消させて」。

結局、プリントアウトしたかどうかも有耶無耶のまま、ある日突然、「東京ポエマー」は、ネット上から消滅しました。
今探してみても、跡形もなく消えていて、その断片すら検索には引っかかりません。

代わりに妻が始めたブログが、「空手とことこ、イタリア語てくてく」です。
鋭く尖った文章ばかり書いていた「東京ポエマー」とは、真逆の“のほほん”ブログです。

新ブログを見て、妻の人生の“ステージ”が変わったことを、実感しました。
妻が私との結婚を決めたことで、それまでの鋭く尖ったものを心に秘めていた日々が嘘だったかのように消え去り、のほほんとできるようになったこと。私はそれを、本当に心からを嬉しく思いました。

「東京ポエマー」が消えてしまったことには、一抹の寂しさを覚えつつ。

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「東京ポエマー」は、もう存在しません。

妻の人生のある時期の想いが綴られ、結果的に妻と私を結びつけるメッセンジャーとなったあのブログは、とうの昔にその役目を終えました。役目を終えたものが、消えていくのは宿命(さだめ)です。

でも、私は、ここに書き残しておきたいのです。

夢破れて、失意の中で自分を取り戻そうともがいた、一人の女性の心の記録が、あったことを。
シャープで透明感のある、少し背伸びした文章で綴られたその記録が、美しい詩集であったことを。

「東京ポエマー」は、もう存在しません。
しかし、私の心には、今も、深く、深く、刻み込まれています。

東京ポエマー
(「東京ポエマー」の背景は、こんな感じの東京の夜景画像でした)