昨日は、大学時代の友だちとそのお子さん二人と一緒に、「岩槻城址公園」で遊びました

遊ぶ場所にこの公園を選んだのは、友人の長男H君(なんと6歳にして『真田丸』を毎週見ているそうです!)から、「お城が見たいから城址公園がいい!」と言われため。

嬉しいこと言ってくれますね!
これはH君の期待に答えねば、と俄然張り切る私でした。

しかし「岩槻城址公園」は、かつての岩槻城の地形の一部が保存されてはいるものの、来訪者にその地形を楽しんでもらう仕掛けがほとんど無い(!)という残念な史跡公園。H君に楽しんでもらうには、私自身が城址の地形を楽しめるように案内しなければなりません。

そこで今回は、江戸時代後期に描かれた岩槻城の絵図『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』を片手に、城址公園を散策することにしてみました。

結果は・・・絵図の示す地形を実地に確かめながら歩くことができ、大人2人も、子ども3人も、とても楽しめる散策となりました。

予想以上に楽しめたので、
・H君とパパの復習用に、
・今後、岩槻城址公園に、城址の地形を求めて訪問する同好の士の参考資料として、
岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』と、実際の城址公園の地形について、本エントリにまとめようと思います。


1.絵図に見る岩槻城の全景

まずは、『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』で見る、江戸時代後期の岩槻城の全景から。
この『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』は、旧・岩槻市が発行した『岩槻市史(通史)』(1986年)の付録です。古本で入手しました。
沼に囲まれ、元荒川に突き出してる“舌状台地”に築かれた城、岩槻城の特徴は、この絵図を見るとよく分かります。

【絵図で見る岩槻城全景】
岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図

ただし、この写真の解像度では絵図の文字は読めないので、城の各所の名称を書きこんでみました。↓

【絵図で見る岩槻城全景(城各所の名称付記)
岩槻城絵図

上図(↑)から、岩槻城が、江戸の将軍が日光詣をする際に使う街道「日光御成街道」が、元荒川と交差する地点に築かれた城であることが分かると思います。

戦国時代には、
・日光御成街道の前身・奥大道は、鎌倉と下野国(栃木県)~東北地方を結ぶ大街道でした。
・元荒川は、荒川の本流にあたる大河でした。

岩槻は大街道が大河を越える渡河点であり、同地が戦略的な要所として、争奪の対象となったのも当然です。

黄色で書いた「鍛冶曲輪」・「新曲輪」が、「岩槻城址公園」として保存されている部分です。この2つの「曲輪(くるわ)」は、岩槻城の南の守り。小田原北条氏が岩槻城を押さえていた時代に築かれたものと言われています。

ちなみに、城の中心部である「本丸」は、実は「岩槻城址公園」には含まれていません。
「本丸」跡は、現在、県道2号線で分断され、「マミーマート岩槻店」が建っています・・・。


2.岩槻城址公園はどこにある?

今日の「岩槻城址公園」はどこにあるのか?
上で書いた通り、「鍛冶曲輪」・「新曲輪」が、「岩槻城址公園」として保存されている部分です。
絵図に、「岩槻城址公園」をはじめとした現在の地名を重ねたものが、次図(↓)です。

【絵図で見る岩槻城全景(城各所の名称付記)(現在の地名も付記)



国土地理院の「地理院地図」で、「岩槻城址公園」の位置、「鍛冶曲輪」・「新曲輪」の位置を示すとこんな感じ(↓)です。

【地理院地図で見る岩槻城址公園(航空写真)】
岩槻城址公園の位置

【地理院地図で見る岩槻城址公園(地形図)】


新曲輪」のど真ん中には、ドーンと野球場が・・・(笑)。
野球場になっている城跡って多いですよね。

鍛冶曲輪」の方が、木々を残し、開発されずに済んでいることが分かります。
城址の碑が残っているのも、この「鍛冶曲輪」跡。
そして、今回、絵図を片手におっさん2人+子供3人で散策したのも、やはりこの「鍛冶曲輪」でした。


3.絵図に見る「鍛冶曲輪」
今日歩いた鍛冶曲輪を、岩槻城の絵図『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』で確認します。
色の凡例は・・・
・緑色→土塁
・朱色→空堀
・青色→水堀
・黄土色→道

鍛冶曲輪は、土塁と空堀によって攻めてきた敵を、狭くて且つ複数の方向から狙い撃ち(城側から)できるような構造になっていますね。

【絵図で見る鍛冶曲輪】


“色凡例”を、絵図の中に書きこんでバージョン(↓)もつくってみました。

【絵図で見る鍛冶曲輪(色凡例を付記)】



4.絵図を片手に「鍛冶曲輪」を歩く
ここからが本題です。
実際に鍛冶曲輪を歩いて撮った写真を、岩槻城の絵図と対照させながら紹介したいと思います。

鍛冶曲輪の散策順路は、下図(↓)の通り。

【本日の岩槻城・鍛冶曲輪の散策順路】



写真①:新曲輪との境目の空堀

写真①は、新曲輪との境目の空堀。
私は、写真(↑)右手の急な斜面を「土塁」だと説明してしまいましたが、絵図と照合すると「切岸」ですね。
右手の「切岸」の上は、お隣の「新曲輪」ですが、ここから鉄砲や弓矢で狙われたらたまらんな・・・と感じました。
左手の土塁は、(かつては分かりませんが)現在は傾斜も高さも、それほどではありません。

ちなみに、写真の奥で小さく見えている青い服の少年のあたりで、北条氏が空堀の底に好んで作った障害物「障子堀」が見つかっています。

【写真①】


【写真①はどこで撮られたか?】



写真②:出丸?から狙い撃ちされる空堀

写真②は、写真①の先で空堀が左折したあたりを撮影したもの。
絵図と対照させると、写真①と同様、右手が切岸・左手が土塁です。

この右手の切岸の上は、「鍛冶曲輪」の「出丸」(?)のように見えるスペースです。
左手の土塁も、この辺りではかなり高くなっています。
両側から狙い撃ちされそうで、ちょっとゾッとしました。

【写真②】


【写真②はどこで撮られたか?】



写真③:出丸?との通路(土橋)

写真③は、写真②の先で空堀が右折したあたりを撮影したもの。
目の前に階段が出てきますが、絵図を見ると、ここに「鍛冶曲輪」中心部と「出丸(?)」をつなぐ通路としての「土橋」があったようです。

【写真③】


【写真③はどこで撮られたか?】



写真④ 出丸?との通路(土橋)の上から南の空堀を臨む

写真④は、写真③で見上げた「土橋」の上からの眺め。
南側の空堀を見下ろしています。

南側は敵が侵入してくるルートですので、この写真④の小1男子2人の視線は、戦国の岩槻城籠城衆が、敵勢を迎え撃つ時のそれに近かったはずです。

【写真④】


【写真④はどこで撮られたか?】


【写真④はどこで撮られたか?(拡大版)】



写真⑤ 元荒川側から臨む

写真⑤は、写真④で見下ろした空堀を進んで左折し、道路にぶつかったところで踵を返して来た道を戻っているところ。

今までの順路は、城の内側⇒外側でしたが、元荒川側からのこの眺めは、外側⇒内側。
岩槻城を攻める側の視点に近そうです。
右手の土塁の上が、「鍛冶曲輪」の中心部です。

【写真⑤】


【写真⑤はどこで撮られたか?】



写真⑥:鍛冶曲輪中心部から出丸(?)へ通じる土橋を望む

鍛冶曲輪の中心部に登り、写真④で通った「土橋」を望みます。
この土橋の先にあるのが、私が「出丸(?)」と書いてきた部分です。
この写真からは分かりにくいのですが、写真③と④で見た通り、土橋の左右は急傾斜の階段。戦国時代は切り立った「切岸」だったはずです。
肉眼では、この雰囲気がひしひしと伝わってきました。

(鍛冶曲輪の中心部は、子どもが走り回るのにちょうどよい広さと、傾斜があるので、息子が駆け回っていました。)

【写真⑥】


【写真⑥はどこで撮られたか?】



写真⑦:鍛冶曲輪中心部の広がり感

鍛冶曲輪」の中心部。
切り立った「土塁」・「切岸」の上に、これだけの空間があれば、かなりの兵士を詰めさせることができたことでしょう。

【写真⑦】と【写真⑦はどこで撮られたか?】を比べると分かると思いますが、本当に絵図のままの地形が残っています。驚きました。

【写真⑦】


【写真⑦はどこで撮られたか?】



写真⑧:城址の石碑は、鍛冶曲輪の土塁の上に

写真⑧は岩槻城址の石碑。
石碑では城の名前は「白鶴城」。太田道灌による築城伝説にちなんだ、岩槻城の別名です。
現在は黒田基樹先生に否定されてしまった岩槻城・太田氏築城説ですが、かつては岩槻民の誇りとなっていました。この石碑もそれを受けて建てられたもの。

北条氏が築いた「鍛冶曲輪」に、この碑が立てられているのは、少々皮肉な気がします。

今回の探訪では、この石碑が、「鍛冶曲輪」の土塁上に立っていることがよく分かりました。
(→【写真⑧はどこで撮られたか】をご参照ください)

【写真⑧】


【写真⑧はどこで撮られたか?】



写真⑨:鍛冶曲輪から菖蒲池を望む

岩槻城址公園名物(?)の「八ツ橋」。
岩槻城の歴史と何の関わりもないこの橋が架かる菖蒲池を、鍛冶曲輪から眺めます。
道は緩やかな下り坂です。

【写真⑨】


【写真⑨はどこで撮られたか?】



写真⑩:元荒川側の出丸?への通路?
今回の「岩槻城絵図を持って城址公園を歩こう」散策で、私が一番驚いたのは、この写真⑩の地形です。
これまで、公園と道路をつなぐ通路として、まったく気に留めていませんでしたが、絵図と対照とすると、岩槻城時代からの地形のようです。

絵図(→【写真⑩はどこで撮られたか?】)に示される、鍛冶曲輪の元荒川側の土塁の切れ目と、写真に見える土手を削って作られたかのような道路への通路は、“完全に一致”です。

おそらく、元荒川側の「出丸」への通路だったんでしょうね。

【写真⑩】
IMG_20160522_172642880.jpg

【写真⑩はどこで撮られたか?】



写真⑪:八ツ橋から見えるあの林は・・・

岩槻城址公園名物の「八ツ橋」。
岩槻城の歴史と何の関わりもないこの橋(←しつこい?)から見える、林のある小さな丘も、岩槻城絵図に描かれてる土塁のようですね。
城址公園内には、何の説明もないので、気づいた時はちょっとビックリしました。

【写真⑪】


【写真⑪はどこで撮られたか?】



5.絵図を片手に「鍛冶曲輪」を歩き終えて

今回はじめて、岩槻城絵図『岩槻城并侍屋敷城下町迄惣絵図』を片手に、城址公園を散策してみました。
その結果、「鍛冶曲輪」周辺の地形が、ほぼ絵図のまま残されていることが分かりました。

しかも、土塁/切岸/空堀の高さ・深さも立派なもの。
戦国時代の将兵の気持ちになって、「城を攻めるには?」・「城を守るには?」を考えながら歩くのに十分なレベルです。

これほど、江戸時代の絵図のままの地形が残っているなら、
①絵図と現在の地形を対応させるような案内表示を行う、
②戦国時代の攻城戦をイメージさせる案内表示を行う、
を行うことで、かなり「楽しめる」城址になるはず。

岩槻城址は、本来のポテンシャルを活かし切れていないですね。
ここは、もっと面白い場所になるはずです。