祝* おめでとう | 野良翻訳家・HanaBananaの Enjoy Life!
本日、日本晴れの空のもと、息子は中学を卒業しました。

中学では、1年生、2年生とバレーという部活に励み、3年生になる時に退部、受験勉強一本に絞った3年間。


1年生の時、緩い部活と聞いて、適度に体を動かせれば程度の気持ちで部活に入った息子。特に運動が得意でもなく、お稽古事のスポーツも適度に出来たらそれでよし、そんな風な彼らしい選択だと思いました。ところが、新しい顧問の先生は、そんな緩い部員を強くしたいと思っていたようで、みるみる内に、練習は朝、放課後、毎日、土日も両日、夏休みも3日ほどしか休みがなく、朝から晩までという、はちゃめちゃにキッツイ部活になり、しかしながら、まだ1年生、逆らうこともままならならず、かといって、最初と話が違うぞと、どこか納得がいかないまま、練習に行き続け。そのうち、徐々に力をつけてきたチーム、2年生になる頃には息子もエースアタッカーとしてのポジションを獲得。一方で私はそんな息子の辛さもわかってはいましたが、勉強だけはきちんとしておきなさいと、成績が下がることは許しませんでした。今だから言えるけど、と息子が教えてくれましたが、塾の宿題は全然やっていなくて、授業に出ても居眠りばかりの2年間だったそうです。学校の成績だけは何とかしたけど、とにかく、勉強なぞ出来るわけがない状態だったと。また、顧問の先生も熱くなっていたのか、塾の宿題をやる時間も拘束、2年生の終わり頃に退部の意思を見せた時に「どうしても行きたい高校があるから、勉強に専念したい」と言ったところ、「そんな学校にお前は入れるわけがない」と言ったそうです。この発言はつい最近、知りました。また、その時期の担任の先生も体育会系の先生で、部活礼賛の先生だったため、エースなのに退部するということで、かなり責められていたようです。一度、私も面談の時に話しましたが、成績も悪くはない息子のことを何故こんなにも部活のことで、非常識な生徒として扱うのか、ちょっと語気荒く、先生にもの申したこともありました。あくまでも、部活が嫌だ、ではなく、これからは受験だから適度に運動しながら勉強したい、でもバレー部では適度は許されない、今まで通りばっちり練習と遠征に出てもらう方針、ならば受験を取るので退部する、それだけのことなのに、部活の素晴らしさ、続けることで学ぶものはあると言うだけで、こちらの言うことは受け付けない。内実をそれほど知らせない息子ではありましたが、尋常ではない息子の暗い顔が心配で、また、どっぷり体育会系の部活から抜け出たかった生徒は息子だけではなく、それとなく伝わってくる先生の言動の偏りに、ハラハラしたものです。その後、息子は「受験に専念します」とキッパリ辞めてきましたが、何度か引き留めの連絡をもらいました。でも息子は、何の未練もなかったようです。しかしながら、一番辛かったのは、顧問の先生から言われた部員たちからの帰ってきてコール。これはもちろん部員の生徒さん達の本音でもあったと思いますが、顧問の先生の工作も見えていましたので、もう親が出ていくしかないなと、私から先生にかなりきついお断りをしました。



私は体育会系のマインドはわからないけれど、それでも、そこには価値があるし、スポーツで頑張る学生時代も得るものはあると信じています。ですが、そうではない子供もいます。適度に運動ができたら楽しい、それがちょうどよい子供もいます。それは別に罪でも何でもないことなのに、それを表明しただけで、何故、罪人まがいの扱いをされなければならないのか?その、我が価値観のみが正しく、それに反するものは強制をしてでも従わせる、そのマインドだけは、息子の頭の中にも、私の、そしてうちの家系の誰の生き方をとっても、ありませんから。


勉強したい、だから退部します、それだけで、おまえなんか志望校に入れるわけがないという言葉を、中年の大人から、先生から言われた、まだ14年しか生きてない少年の気持ち、そのことを思うと、窓ガラスを割ってやりたいのは、親の私です。たとえそれが叱咤激励のつもりで言ったと言われても、そんなことは信じられません。一事が万事、どんなつもりで出てきた言葉かわかりませんが、息子は反抗期で言葉をすんなり受け止められなかったのかもしれませんが、エースアタッカーとして部活をしていた日々は、その活躍と喜びよりもプレッシャーの方が大きかった、激しく傷ついていたと思います。他人の子供に、たかが長くて3年間しか付き合えない人が言って良いレベルは遥かに越えていたと思います。



その後の息子の頑張りと言えば、よくここにも書いていましたが、朝は早くから学校で自習、帰りはそのまま塾へ直行、自習か授業で帰宅は十時過ぎ。土日も模試か自習で朝から晩まで。暑かろうが雨が降ろうが寒かろうが、ほぼ九割、いや十割に近い日、受験まで続けました。


その間、食事が食べられなくなったりして痩せたり、もしも私立にいくことになったら塾にいく経済的な余裕はあるのか、そもそも大学にいく余裕はあるのか、浪人してもいいか、何浪までできるか、留学は出来るのか、様々な将来への不安をぶつけてきました。私もやりたいことは、こんなにも勉強に真剣な子供には何でもかんでもやれるものならやりたい、とは思っていますが、私の力でそれが出来る!やれ!!と断言してあげられなくて、情けなくて隠れて悔し泣きしながら、とにかく、一つでも多くのことをさせてあげるには、日々の仕事でテッペンとっていくしかない、考えられる可能性は全てやりきらねばと、元の伴侶に減らされた養育費の増額を再度クレームするための調停をしよう。そのための弁護士探し(これがまたなかなか見つからず)。そして、現在、調停が始まったばかりです。


が、息子は、頑張りが実って、今年はよりいっそう人気が出て県内のトップ高校に名前を連ねた進学校に受かりました(その上は開成とか、特殊なお勉強しないと入れないところなのー)。


こんな経緯があっての、受験でした。
そりが合わなかった顧問の先生の言葉も結果的に導火線の火を大きくしましたが、その火を保ち続けた息子の1年間、私は手放しで褒めあげています。よく頑張った、偉かったと。チームメイトと勝利を分かち合うことは出来なかった、けれど、自分で仕掛けた試合には勝ちました。



今日、卒業式に行って、たくさんのお母様から、



「今朝の新聞の広告に写真入りで出てたわよ?(塾の合格者の声)」



「息子さんが引っ張ってくれたから、うちの子供も頑張れました!ありがとうございます!」

一人や二人ではなく、息子がとにかく朝から晩まで勉強していることは、少し噂になっていたようですし、お友達にも、最後までくじけずにやれ!やるしかないんだー!と、生意気にも発破をかけていたようです。




文集にあった息子の作文を載せます。


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一年間の山登り

中二の最後、僕は勉強に専念するため部活を辞めた。辛い練習から逃げたかった訳ではない。むしろ、そのまま、部活を続けても良かった。ただ、自分を追い込みたかったのだ。後悔など微塵もない。なぜこのような事を決めたかというと、僕には地獄を通ってでも行きたい高校があったからだ。

四月時点、僕はその高校の合格ラインに届いていなかった。山でたとえるなら一合目だ。頂上は雲に覆われていて見えない。だが、僕は足掻いた。上へ、上へ。

八月時点、未だ頂上は見えない。ここで僕は一つ不安を抱く。この山は本当に自分に見あう山なのか。霧が濃くなり、目の前が見えなくなった。

しかし、ここで引き下がる訳にはいかない。なぜなら受験という山を登ってるのは、僕だけではないからだ。家族だって担任の先生だって、僕を支えながら登ってくれている。それを台無しには出来ない。

十二月時点、雲はまばらになってきた。もうすぐで頂上が見える気がする。

僕は受験という山を登るにあたって、頂上に登ることだけが大切なことではないと、この一年で学んだ。たとえ僕が合格してもしなくても、この剛峰に挑んだ勇気と、支えてくれた人達への感謝を忘れたくない。

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そして、息子から、うちの母、私、そして離れて暮らしている父親への手紙です。

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十五年間も支えてくれて、ありがとうございます。特に中学三年生の受験期では、僕の言動で身体的、精神的に大変なご苦労をかけてしまいました。
さて、一戦終わり、次は高校生活の始まりです。すぐに飛び立ってやろうと、幼い頃は思っていたものの、受験期を通して、保護者の大切さ、包容力を知り、かつての威勢は失ってしまいました。もう少しお世話になります。
ですが、本当の戦はここからです。大学には自分の力で行きたい、そう思っています。そのため、内に甘んじず、外に目を向ける勇気が必要になると思います。

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卒業、おめでとう。

四月から高校生。
あなたの人生は始まったばかり。
思いっきり生きておいで。
ママは後ろから援護射撃しまくるから。
弾ある限り。